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概要編集

第16代ローマ皇帝(在位:161~180年)

ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニヌス・ピウスとともに『五賢帝』の一人に数えられる。著作である哲学書『自省録』はギリシア語で書かれ、日々の思索が散文で綴られ皇帝本人の肉声を今に残すが、俗事についてはふれていない。

軍事よりも学問を好んだが、治世のほとんどは対外戦争に費やされることになった。

即位まで編集

本名「マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス」(121~180年)。

121年4月26日、ローマ貴族マルクス・アンニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれる。3才の時に父が亡くなり、祖父に引き取られ上流階級の子弟に相応しい教育を受けた。家庭教師たちからの影響で、12歳の頃から哲学に興味を持つようになる。


カティリウスはハドリアヌス帝の妻の甥にあたり、幼い頃から寵愛を受けたが、ハドリアヌスは属州の巡行で忙しく、直接会う機会はあまり無かった。


136年、ハドリアヌスの命令により、重臣ルキウス・アエリウスの娘ケイオニアと婚約し、皇帝の側近に加えられる。この頃にストア派の哲学者との知遇を得ている。

病気が重くなったハドリアヌスは、ルキウス・アエリウスを後継者に指名したが、ルキウス・アエリウスは138年に急死した。アウレリウス・アントニヌスが、カティリウスとルキウス・ウェルス(ルキウス・アエリウスの子)を養子にする事を条件に後継者となった。

7月10日、ハドリアヌスが病没し、叔父アントニヌスが皇帝として即位した。


アントニヌス帝はルキウス・ウェルスよりカティリウスを重用し、カティリウスはアントニヌスの命令でケイオニアとの婚約を破棄し、アントニヌスの次女小ファウスティナと婚約した。

140年にはアントニヌスの同僚執政官に叙任され、副帝の称号も受け、「マルクス・アエリウス・アウレリウス・ウェルス・カエサル」に改名した。

アントニヌスの命に従い宮殿で生活することになったアウレリウスは、退廃した宮廷文化との齟齬に思い悩むことになる。

145年、アウレリウスは小ファウスティナと結婚した。


154年、ルキウス・ウェルスがアントニヌスから執政官へ叙任され、アウレリウスから14年遅れで漸く等しい立場になった。アントニヌスはルキウスを嫌い、ハドリアヌスとの約束で皇族の一員として残しているだけだった。

156年、アントニヌスは目に見えて老い衰え、アウレリウスが補佐官として政務を一部代行するようになった。

160年、アウレリウスとルキウス・ウェルスが執政官と共同執政官に叙任された。

161年3月7日、アントニヌスは自室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像をアウレリウスの部屋に移すよう命じた。言い終えるとそのまま息を引き取った。

即位編集

元老院はアウレリウスに「アウグストゥス」と「インペラトル」の称号を与え、最高神祇官にも就任した。アウレリウスは即位に気が進まなかったが、叔父が意図的に疎外してきたルキウス・ウェルスも自らの共同皇帝にするように命じ、元老院から認可された。

二人はそれぞれ皇帝「インペトラル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス」、共同皇帝「インペトラル・カエサル・ルキウス・アウレリウス・ヴェルス・アウグストゥス」と名乗った。

アウレリウスは庶民的な皇帝として人気を得たが、彼の治世中、ローマは多くの困難を抱える事となる。

パルティア戦争編集

161年、ローマの庇護下にあったアルメニア王国へパルティア軍が侵攻。王を追放し傀儡の君主を立てた。カッパドキア総督マルクス・セダティウス・セウェリアヌスの軍がアルメニアへ向かったが、パルティア軍に大敗を喫した。パルティア軍はシリア総督の軍も撃破したため、アウレリウスは東方属州に増援軍を派遣した(第六次パルティア戦争)。

162年、一向に好転しない戦局に、元老院はルキウスの親征を承認する決議を行った。アウレリウスにはローマへ留まることが勧められた。

ルキウスは後方のアンティオキアで遊んで過ごし、全く役に立たなかったが、163年にローマ軍がアルメニアの首都を占領すると、司令官として元老院から「アルメニクス」の称号を与えられた。

その後、パルティア軍はオスロエネ王国に侵攻。再び傀儡の君主を立てた。165年、ローマ軍はユーフラテス川を越えて進撃し、親ローマ派の君主を復位させた。ローマ軍は追撃を続け、パルティア王国の二大都市(セレウキアとクテシフォン)を占領した。セレウキアでは略奪が行われ大勢のギリシャ系住民が虐殺されたが、ルキウスは「住民が約束を破ったから」と強弁した。


ローマ本国では凱旋式が挙行され、元老院はアウレリウスとルキウスに多くの称号を与えた。

しかし、ローマ軍は遠征先から天然痘を持ち帰っていたのだった。

翌年から始まった天然痘の大流行は500万以上の死者を出し、アウレリウスも病に倒れた。

マルコマンニ戦争編集

ローマの北方国境は東方の蛮族に押し出されるゲルマン人により、不穏な状態となっていた。

162年からゲルマン人のドナウ川地域への侵入が続いていたが、166年にダキアにヴァンダル人の一派が侵入。西隣の遊牧民族サルマタイ人と同盟してローマ軍を攻撃し、ダキア総督が戦死した。アウレリウスはパルティア遠征軍の一部を送り込んだが、疫病の流行で国力が弱っており、防戦一方だった。


169年1月、冬を避けてローマに帰還する道中、ルキウス・ウェルスは食中毒の症状を呈して床に就き、数日後に死亡した。

これ以降、アウレリウスは単独の皇帝となった。


この年、ダキアに侵入した遊牧民族ジャマタエ人を討伐すべく、アウレリウスは出陣した。ローマ軍がジャマタエ人に苦戦する中、コストボキ人がトラキアに侵入。南下してギリシャに到達し、アテネ市で略奪を繰り広げた。

更に、これまでローマ寄りだったマルコマンニ人がヴァンダル、サルマタイなどと同盟を結び、ドナウ川を越えて一斉にパンノニアに侵入。ローマ軍は大敗を喫し2万人が戦死した。敗走するローマ軍を追ってマルコマンニ人はローマ本国に到達。オデルツォ市を破壊し、アクイレイア市を包囲した。アウレリウスは各地から軍勢を掻き集め、必死の戦いの末、171年にマルコマンニ人をドナウ川まで引き上げさせた。


アウレリウスは外交交渉を仕掛け、ジャマタエ人とヴァンダル人とは同盟を結んで自陣営に引き入れ、クアディ人とラクリンギ人とは休戦協定を結んで離脱させた。

172年、ローマ軍はドナウ川を渡河し、マルコマンニ人たちを追撃。マルコマンニ人を撃破し、同盟者であったコティニ人とウァリスキ人を占領下に置いた。

173年、クアディ人が休戦協定を破ってマルコマンニ人を支援しているのが分かり、戦いが再開された。クアディ人に包囲されるなどピンチが続いたが、奇跡的に勝利を得た。クアディ人は親ローマ派の王を追放して新しい王を据えたため、更なる追撃が行われ、クアディ人の領域のほとんどがローマ軍の監督下に置かれた。

アウレリウスはジャマタエ人討伐を再開し、ローマ軍はダキアへ転進した。175年、ジャマタエ人はローマ軍に屈服し、6000名の同盟騎兵を提供する条約を結んだ。同盟騎兵の殆どはブリタニアへ送られた。


アウレリウスは国土防衛のため、ゲルマニアの国境を押し上げることを構想したが、長引く戦争への兵士達の不満を背景としたガイウス・アウィディウス・カッシウスの反乱があり、断念した。

アウレリウスは自分が死んだ場合に備え、唯一の生き残った嫡男・コンモドゥスに「カエサル」「インペラトル」「アウグストゥス」の称号を与え、共同皇帝として指名した。


177年、クアディ人とマルコマンニ人が侵入を再開。アウレリウスは遠征を決定した。

178年、アウレリウスはマルコマンニ人を撃破。179年、ラウガリキオの戦いでクアディ人に勝利を収めた。別働隊の追撃も成功し、マルコマンニ人とクアディ人はゲルマニア中央へ退いた。

崩御編集

180年3月17日、アウレリウスはウィンドボナの陣営地で病没した。

マルコマンニ戦争の帰結は、後継者コンモドゥス帝に引き継がれることとなった。


アントニヌス・ピウス(15代)←  →コンモドゥス(17代)


関連タグ編集

ローマ 古代ローマ 歴代ローマ皇帝 五賢帝

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