概要
IMPERTOR CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS PONTIFEX MAXIMVS
全名 | ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(出生時) |
本名 | Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus |
副官時代 | Titus Aelius Caesar Antoninus |
ティトゥス・アエリウス・カエサル・アントニヌス | |
生没 | 86年9月19日:ラウィニウム(イタリア本土)- 161年3月7日:(74歳没)ロリウム(イタリア本土) |
権力 | ハドリアヌスより継承 |
統治 | 138年7月10日- 161年3月7日(23年) |
皇帝名 | インペラートル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(即位時) |
皇帝即位前年
137年、皇帝ハドリアヌスの治世は21年目、もはや老人に成り果てていたが、いまだに後継者を確定できずにいた。ハドリアヌスの養子で後継者のアエリウス・カエサルが結核で早逝したため、ハドリアヌスはアエリウスの子マルクス・アウレリウスを後継者に考えていたが、この時点でマルクスはまだ16歳と未熟だったためその中継ぎとなる人物を探すこととした。
ハドリアヌスは当時彼を補佐していた執政アントニヌスに目を付けた。ハドリアヌスはアントニヌスに事情を話し、アントニヌスはハドリアヌスの養子になることを承認した。この時アントニヌスは50代過ぎた老人であった。
即位後
西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスはルキウス・ウェルスとマルクス・アウレリウスの後見人として即位。アントニヌス51歳の頃である。
トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された。アントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた。
「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来する。
皇帝即位後マルクス・アウレリウスを財務官職にするも仕事や権限は無いに等しく皇帝不在の時に手紙を代読するといった秘書的な役割が精々だった。執政官としては二つの元老院議長の一人として議会を統制する立場であった。
元首アントニヌスの統治はそれまでのトラヤヌス・ハドリアヌスとは打って変わり、淡々と地味なものであった、彼は軍事行動以外では一切帝都ローマを離れることはなかった。休暇を取る時もローマ近郊の質素な邸宅で休養した。
そのような態度が周辺諸国の君主には「君主らしく」見えたのだろう、ハドリアヌス時代よりよほど外交はうまくいっていたという。(別にハドリアヌスは外交は不得意であった訳ではないが質が違うのである。)
アントニヌスの特異な点は一つに将軍としての軍団指揮経験がないことである、ローマ皇帝はインペラートルであるから、軍を率先して指揮しなければいけないのだが、文官たたき上げ感のあるアントニヌスにその経験がないことは致命的かとおもわれた。幸いにも大規模な軍事行動は起きなかった。ただしっかりと各将軍間の調整は行っていたようである。
アントニヌス時代の記録は乏しい部分があり、23年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。その代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだとされる。アントニヌスは市民権や奴隷制に関する改革を行ったとともされる。
晩年
156年、70歳を迎えていたアントニヌスは目に見えて衰弱しており、まともに立つことも困難になりつつあった。
老いた皇帝は早朝の会議で眠らないように乾いたパンを口の中で噛み続ける習慣を行ったとも言われる。マルクス・アウレリウスは養父の補佐官として行動する機会が増え、皇帝の政務を一部代行するようになった。
ある日、アルプス産のチーズを食べたアントニヌスはその夜に嘔吐と発熱を起こした。
161年3月7日、アントニヌスは病を押して議会を開くと自らの寝室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像を「アウレリウスの寝室に移せ」と命じた。言い終えるとアントニヌスはそのまま仰向けに倒れて息を引き取った。
ハドリアヌス(14代)← →マルクス・アウレリウス、ルキウス・ウェルス(16代)
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