第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスと共に統治した共同皇帝(在位:161~169年)。
本名「ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルス」(130~169年)
法務官を務める父、ルキウス・アエリウス・カエサルと母、ルキッラの間に生まれた。
父はハドリアヌスが最初に後継者として考えた人物であった。138年の父の死後、ハドリアヌス帝の遺言により、マルクス・アウレリウスとともにアウレリウス・アントニヌスの養子となる。
7月10日、ハドリアヌスが病没し、アントニヌスが15代ローマ皇帝(アントニヌス・ピウス)として即位した。
154年に執政官を務め、161年にマルクス・アウレリウスとともに再び執政官を務めた。
この年にアントニヌス・ピウスが死去、マルクス・アウレリウスが皇帝の座を継ぎ、ウェルスは共同皇帝となった。
2人の皇帝には同等な権利があったが、実際はマルクス・アウレリウスが指導的な立場を握っていた。
162年、元老院の決議により、ルキウスはパルティアとの戦争に親征し、督戦を行うことになった(アウレリウスは「民衆が滞在を望んでいる」としてローマへ留まるよう勧められた)。
ルキウスは後方のアンティオキアで享楽的な生活を続け、シリア総督アンニウス・リボを疎んで暗殺したという噂を立てられたが、163年にローマ軍がアルメニア首都を占領すると、司令官として元老院から「アルメニクス」の称号を与えられた。
その後、パルティア軍はオスロエネ王国に侵攻。再び傀儡の君主を立てた。165年、ローマ軍はユーフラテス川を越えて進撃し、親ローマ派の君主を復位させた。ローマ軍は追撃を続け、ガイウス・アウィディウス・カッシウスの活躍でパルティア王国の二大都市(セレウキアとクテシフォン)を占領した。セレウキアでは略奪が行われ大勢の市民が虐殺されたが、ルキウスは「住民が約束を破ったから」と強弁した。
元老院はアンティオキアのルキウスに「パルティニクス・マキシムス」の称号を与え、ルキウスはインペトラル経験数を3回へと増やした。またアウィディウスが帰途メディアを占領したので、「メディクス」の称号を授与され、インペトラル経験数を4回へと増やした。
ルキウスはパルティア戦争の勝利に関する多くの栄誉を元老院から与えられた。しかし真の功労者がアウィディウスであった事は明らかであった。
166年、ローマ本国で凱旋式が挙行され、二人の皇帝に加えてその妻や子供も含めたかつてない大規模な式典が行われた。
戦勝に沸くローマであったが、遠征軍は疫病を持ち帰っていた。
翌年からの「アントニヌスの疫病」と呼ばれた天然痘の大流行により、帝国全体で500万以上の人命が失われた。
168年春、ドナウ川に来襲したアラマンニ人とマルコマンニ人を迎え撃つため、ルキウスはパンノニアに出陣した。
169年1月、冬を避けてローマに帰還する道中、ルキウス・ウェルスは食中毒の症状を呈して床に就き、数日後に死亡した。
ルキウスの葬儀の後、元老院はウェルスを神として祀ることを決議し、ディウス・ウェルスの称号を与えた。