同名人物の項目
本名ティベリウス・クラウディウス・ネロ(TIBERIVS CLAVDIVS NERO)。
出生
BC42年、父、ティベリウス・クラウディウス・ネロ(ローマ軍将校兼元老議員)と母、リウィア・ドルシッラとの間に生まれた。共和制末期、父はブルートゥス派、次いでアントニウス派と負け組に属したため両親と共に各地を逃げ回った。オクタウィアヌスとアントニウスの協定が成立してローマに帰還したが、オクタウィアヌスがリウィアとの結婚を望んだため、離婚した父の元で育てられた。
成人したティベリウスはオクタウィアヌスのもとでローマ軍の司令官として各地に派遣され、マルクスやアグリッパの元で軍歴を重ねて有能さを示す。
BC27年、オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの尊称を贈られ初代ローマ皇帝となり、BC12年にアグリッパが亡くなると後任に就任し、軍才に欠けるアウグストゥスを補佐した。
BC11年、アウグストゥスの命令により最初の妻ウィプサニアと離婚、アウグストゥスの娘ユリアと結婚した。しかし夫婦仲は悪く、BC6年、ティベリウスはロードス島へ隠棲してしまった。
ティベリウスがロードス島へ隠棲すると、ユリアは多くの愛人を作るようになった。更にその内の一人ユッルス・アントニウスらとユリアは元首への内乱を謀ったため、姦通罪に問われてBC2年にパンダテリア島へ追放されると、アウグストゥスはティベリウスに離婚を命じて、紀元2年にティベリウスはローマへと帰還した。
その後、アウグストゥスの後継者候補だったアグリッパとユリアの子・ガイウスとルキウスが相次いで夭折し、素行の悪いアグリッパ・ポストゥムスは追放したため、アウグストゥスは妻の連れ子、ティベリウスを後継者候補とせざるをえなかった。
4年、ティベリウスはアウグストゥスの養子となった。しかし、年老いたアウグストゥスは猜疑心が強くなり、ティベリウスへの人物評価は死ぬまで悪いままだった。ティベリウスには最初の妻との間に実子ドルスス(小ドルスス)があったが、甥のゲルマニクスを養子とさせられ、あくまでも中継ぎ扱いであった。
アウグストゥスはゲルマニアを巡っての戦略でエルベ川進出を目論見、ティベリウスと意見を異にしていたが、立場上異論は唱え難く、アウグストゥスに意見できるアグリッパも既に他界していた。
9年にトイトブルク森で、ウァルス総司令官率いる3個ローマ軍団がゲルマン民族の襲撃を受け全滅した。トイトブルク森の後背地にあたるガリアにゲルマン人侵攻を防げる軍は無く、暴動を抑えるため戒厳令が出された。
翌年、ティベリウスがゲルマニア州総督として派遣され、ガリア侵攻の脅威は去った。
遺言により相続者に
14年にアウグストゥスが死去すると、遺言状により相続者として指名された。
アウグストゥスはローマはあくまでもローマ共和国(S・P・Q・R)と考え、自身が君主のように振舞うことをひかえ、絶対権力の濫用は避けて既存の共和制のシステム(ローマ民会・元老院による選挙による合議制)で解決しようと努めた。
プリンケプス(第一人者・ローマ帝)の地位についても、後任は最高国会に当たるローマ民会(コミーティア)においてたとえ「形式的」であっても選挙で選んだ形で踏襲させるか、或いは才能ある人間が自身の後任者として立候補して選ばれる事が望ましかった。しかし、不確定な選挙で選ばれる人間に全てを託す勇気が無かったと思われる。
即位
ローマ元老院とローマ市民よりローマ最高指導者に就任したティベリウスは、カエサルとアウグストゥスの元首政イデオロギーにそった共和国政治を行うとし、第一人者(プリンス)としてのペンネームは『ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス』と明記した。
アウグストゥスをローマ神の一柱に加えることを元老院と民会で決定、後の歴代アウグストゥスの神格化の先例を作る。
就任早々、ドナウ川・ライン川防衛線の兵士が満期除隊させてもらえない不満からストライキに入る。ドナウには小ドルススを送り、ラインでは現地にいたゲルマニクスが軍を掌握し、ストライキの鎮静に成功。その後は兵士の満期除隊を厳守させた。これを機にエルベ川進出に見切りを付け、ローマ帝国の国境はライン川とした。また、ドナウの後背地のパンノニアでインフラ整備を行った。
また、パルティア(イラン)とは2年以来、アルメニアの王位継承に絡んで戦争状態にあった(第三次パルティア戦争)が、17年にゲルマニクスを送りアナトリア半島を征服。ローマ領カッパドキアとした。ゲルマニクスはアンティオキアで19年に病死したが、東方国境の安全保障が確立した。
ティベリウスは『ローマ市民の第一人者』であることに拘り、自身に阿るプロパガンダを法に則り廃した。ティベリウスに対する祝賀行事をした責任者や参加したローマ市民に対し厳罰に処した。また、ローマ市民を犯罪から守るためという名目でローマ親衛隊を使って市民を監視した。そのため市民に人気が無く、『暴君(タイラント)』と呼ばれた。
当初、ティベリウスは元老院の合議に統治の一翼を担う期待を寄せていたが、議員の無能ぶりに失望し、関係は悪化した。ティベリウスは次第に元老議員へ仕事を任せなくなり、親衛隊長官のルキウス・セイヤヌスにほとんど枢機を任せるようになった。
政治の実権を握ろうとするセイヤヌスは、自分が気に入らない人物をティベリウスに『反逆の疑いある者』として報告し、次々に粛清させた。また、23年には小ドルススが病気を装って毒殺された。
ティベリウスはあまりの不人気ぶりに嫌気が差し、27年にカプリ島に隠棲した。離島から送られるティベリウスの書簡を承認するだけの存在となった元老院は権威を失い、ローマ市民を軽視した政治として非難の的となった。
皇帝不在のローマではセイヤヌスが権勢をふるい、自身を神格化し始めた。29年にはゲルマニクスの遺児ネロ・カエサルがポンティア島へと流刑となり、翌年はネロの弟ドルスス・カエサルが地下牢に幽閉された。
この頃になるとティベリウスもセイヤヌスを疑うようになり、31年に敢えて自分とともにコンスル(予定執政官)に指名。公式に副全軍司令官・副第一人者の地位を与えた。
コンスルの一方はローマにいる必要があり、ティベリウスはカプリ島を動かないためセイヤヌスはローマから動けず情報のコントロールを失い、新たに届くようになった情報でティベリウスはセイヤヌスへの疑念を確かなものとした。
5月にティベリウスがコンスルを辞任したためセイヤヌスもそれに倣って辞任、後任にはセイヤヌス派のトゥッリオと、ティベリウスの息のかかったレグルスが就任した。10月17日にティベリウスによりセイヤヌスに代わる親衛隊長官に任命されたナエウィウス・ストリウス・マクロ(後にカリグラ帝の腹心となる)がローマに送り込まれ、レグルスらと示し合わせ、翌日の元老院でセイヤヌスに最高市民長官(護民官)が与えられると騙した。
実際に元老院で読み上げられたティベリウスの書簡はセイヤヌスを弾劾するもので、セイヤヌスは即日処刑された。すぐにセイヤヌス派の粛清が始まったが、セイヤヌスと通じた者は非常に多く、元老院議員やティベリウスの家族にまで及んだため、ティベリウスはますます他人を信用できなくなり、その後の恐怖政治につながった。
凄惨な粛清によりローマ市民のティベリウスに対する印象は悪くなったが、彼に歯向かえる者は誰もいなくなり、その権限は絶大なものとなった。
セイヤヌス派粛清後、ゲルマニクスの遺児ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス(カリグラ)をカプリ島に引き取り、33年にクァエストル(財務官)の地位を与え※1、35年には孫のティベリウス・ゲメッルスとの共同皇帝として後継者に指名した。
37年3月16日、ティベリウスはカプリ島で病死した。
ティベリウスの死に市民は歓喜し、ローマ入りした後継者・カリグラは「我らの子」「我らの星」と歓呼の声をもって迎えられた。
余談
- 吝嗇な事で知られ、緊縮財政により闘技会や競技会などの予算を大幅に削減し、娯楽の減ったローマ市民から不興を買った。また無駄な箱物を作らなかったため、国家財政は健全だった。
- カプリ島の別荘に「セラリア」と呼ばれる乱交用の部屋を設けて老若男女を集め、性器で結合した人間の輪を作らせ、眺めて楽しんだ。
- カプリ島にある海水を湛えた「青の洞窟」で、「雑魚」と呼んだ小さな子供たちと一緒に泳ぎ、自分の股の間を潜らせ、性器を舌や歯で刺激させた。
- ティベリウスの治世中の30年、ユダヤ州総督(属州総督)ポンティオ・ピラト(PONTVITVS PILATVS)がユダヤ教団からの嘆願で救世主を名乗るイエス・キリストを処刑した。
- ※1・・・この財務官の権限は、最高指導者にちかい。ティベリウス老帝がカリグラ王子に召し使いだったかもしれない。