ローマ帝国の第4代皇帝(在位41~54年.13年)
本名ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(BC10~54年.64歳)
出自
ティベリウスの弟・大ドルススを父、アントニウスの娘・小アントニアを母に持つ。父はクラウディウスが15歳の時にゲルマン族と戦い戦没した。
クラウディウスは身体に障害を持って生まれ(脳性麻痺と推測される)、母から嫌われて育ったが、カリスマ的人気を集めた弟・ゲルマニクスは19年に遠征先のアンティオキアで病死。小ドルスス(ティベリウスの息子)と結婚した姉・リウィッラはセイヤヌスと結託して夫を毒殺したことが露見して31年に餓死させられ、クラウディウスだけが残った。
小アントニアは37年、カリグラ帝により自殺させられた。
クラウディウスは名門に生まれながら、身体の障害により長らく公務に就くことがなく、エトルリア史やカルタゴ史などについて著述を行った。一見して知恵遅れに見える外見から軽んじられ、政争に巻き込まれて死なずに済んだ。
37年にカリグラと共にコンスルに就任し、元老院議員に加えられた。
38年に3番目の妻メッサリナ(当時16歳)と結婚する。
41年にカッシウス・カエレア率いる親衛隊の将校たちによりカリグラ帝が暗殺される。
カッシウス・カエレアは親衛隊に元老院への支持を訴えたが、親衛隊は共和政が復活すると職を失うため帝政への支持を守り、ローマ市民は集会を開き暗殺者たちの処罰を求めた。
このため暗殺者たちはカリグラの親族の根絶やしを図り、クラウディウスも殺すつもりだったが、彼は親衛隊の兵舎にかくまわれて無事だった。
クラウディウスはカリグラ暗殺から1日も置かずに親衛隊に担がれ、皇帝に就任した。
即位後
皇帝に就任したクラウディウスは親衛隊の歓心を買うため充分に金を与えたが、引き換えに「皇帝は殺してはならない」という原則を徹底させた。そのため、親衛隊にカリグラ暗殺に関与した者全員の引き渡しを命じ、全員処刑させた。
クラウディウスはカリグラの出した法令をすべて取り消し、ローマの財政を建て直した。フキヌス湖の干拓など大規模な公共事業を企画したが、腐敗した元老院議員ではなく、解放奴隷出身の有能な者に事業を任せた。
43年にブリタンニア(ブリテン島)に遠征軍を送り、南部の征服に成功した。後に皇帝となるウェスパシアヌスはブリタンニア遠征で才能を見出された。
ガリア出身の元老院議員の議席を認めさせるため、自分の一族の始祖がローマ人ではなくザビーニ族の出身であること、カエサルの一門がアルバからの移住者であること、大カトーなどのポルキウス一門がエトルリア出身であることなどを例に引き、ローマの長期的な繁栄のためには人材こそが重要で、征服した民族を異国人として分け隔てしてはならないと説いた演説は、後世の人権運動の際に度々引用された。この施策により、ローマ帝国が危機に陥るたび、属州出身の新たな指導者層が出現した。
妻による謀殺
在位中、善政を行いローマの発展に寄与したクラウディウスだったが、家庭的には恵まれなかった。
生涯で4度の結婚をしたが、3番目の妻メッサリナはクラウディウスにあること無いことを吹き込み、暗殺に怯えていたクラウディウスに多くの人間を処刑させた。48年にメッサリナは元老院議員のガイウス・シリウスと結託してクラウディウスを殺害しようと謀り、自殺する猶予を与えられたが死に切れず、処刑された。
4番目の妻小アグリッピナはカリグラの妹で、我が子ドミティウス(ネロ)を後継者にすべくクラウディウスに近付き、49年、法律で許可されていなかった叔姪婚を行った。50年にドミティウスはクラディウスの養子となり、51年に実子ブリタンニクスを差し置いて皇帝の公式相続人となる。小アグリッピナは毒キノコ入りの料理でクラウディウスを暗殺したとも言われる。
カリグラ(第3代皇帝)← クラウディウス → ネロ(第5代皇帝)