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コンモドゥス

こんもどぅす

17代ローマ皇帝。五賢帝マルクス・アウレリウスの実子であり「剣闘士皇帝」として有名。
目次 [非表示]

第17代ローマ元首 父:マルクス・アウレリウス 祖父:アントニヌス・ピウス

古典ラテン語:Lucius Aurelius Commodus Antoninus

A.D161年8月31日生 - A.D192年12月31日没(31歳)


概要編集

元首政史上初の生まれながらにして帝位についた人物。五賢帝の後継者を目され期待されていたが、公務を投げ出し私利私欲をみたす堕落した君主となり果て、ついにはグラディエーターとして戦い続けたが為に、統治12年のうちにローマ文明は荒れ果てていく。


わんぱく少年期 

元首マルクスの子として生まれたコンモドゥスは父マルクスと同じぐらい金髪美少年だったというが、父マルクスと違い彼自身は病弱ではなかった。腹部に今で言うところのヘルニア的なものがあり体系異常がみられたとされるものの定かではない。コンモドゥスは幼少期より帝王学を学んでいたとされる。ただ父とは違い学業を軽視し、戦争剣闘士ごっこなど粗暴なふるまいが好きだったようだ。


まじめな父親に不満

このようになったのは、元首マルクスがコンモドゥスの活発さを諌めたがゆえにずっと根に持ち続けたのかもしれない。おそらく哲人マルクスはあまり家庭的なことが不得手で良き家庭人として振る舞えていなかった可能性がある。


戦場で即位

コンモドゥスは11歳頃から父マルクスの付き添いでマルコマンニ戦争への軍団指揮に駆り出されていた。戦場での生活が7年続いた後、父老マルクス・アウレリウスはマルコマンニ戦争の最中で亡くなった。これによりコンモドゥスは18歳という若さでローマ元首に即位をすることになる。(このころはまだは生えていない。)


即位後、彼はすぐさま父帝が進めていたダキア戦争から撤退した。


ローマでのコンモドゥス

幸いなことにコンモドゥスが統治している12年間はパルティアもゲルマニアもダキアも大規模な戦乱は起きず、また父帝マルクスの健全な統治体制が残した人材を扱うことで比較的平穏な統治が行われた。


しかしコンモドゥスは元首マルクスと比べて(と書かざるを得ないが、実際擁護が難しいほどの)暴君だった。

彼はとにかく自分で政治を動かしたがらなかったようで、180年に即位してからの11年間は側近に任せきり(有名なのは親衛隊長官ぺレンニウス、側近政治家クレアンデル)、剣闘士になったのは治世最後の1年か2年だと思われる。


ではそれまで何をしていたかというと皇帝名を6回ぐらい変えることだけだった。


そして淫乱の末、実の姉ルキッラから暗殺されかけた

また、彼は宮殿にローマ各地から集めた300人の美少年美少女と昼夜問わず乱交の宴に入り浸っていたとされ、これを10年近く続けていた。ルキッラや帝政関係者は堕落したコンモドゥスに対して暗殺を企て、これを実行した。結果から言って暗殺は失敗、関係者は疑わしきに至るまで徹底的に粛清されたが、ルキッラのみは重鎮クラスの皇族であったこととコンモドゥスが処刑を躊躇ったために流刑で済んだ(後に流刑先で暗殺されたとも)。

コンモドゥスは助かったが、実の家族に裏切られたこの一件は余程堪えたらしく、剣闘士として全力で向かっていくきっかけになったとされている。


グラディエーターとして新政再開

190年頃に彼は自分の責任で政治を動かすことを宣言する。これは当初帝政関係者から応援されたが、すぐに失望に変わることになった。彼は皇帝名7の「神にして主の太陽神にしてローマのヘラクレス、最高のアマゾネス、世界の復興者」を名乗り、皇帝グラディエーターとしてコロッセオで毎日殺戮ショーを開催した。

剣闘士としての技量は非常に高いものだったとされ、あらゆる武器での演舞や試合で優れた成績を残し、一剣闘士として実際に命懸けの実戦を行うこともあった。しかし、「皇帝」というローマ帝国で最も高貴な立場にある者が野蛮な剣闘士業に必死に明け暮れるという前代未聞の醜態に、多くの関係者や民衆は嘆き呆れ果てたという。

これが治世最後の2年である。


暗殺

192年12月31日、かねてより進めていた暗殺計画などがコンモドゥスの家族と側近により実行。コンモドゥスは毎日剣を振るっていただけあって個人戦闘力が非常に高く、更にルキッラの一件から暗殺対策を入念に行っていたため、皇帝の暗殺手段としてよく用いられた刺客よる直接的な殺害ではなく、食事時の毒殺を狙うこととなった。

しかし、コンモドゥスの持ち前の体力と解毒剤を併せて摂取するという食事習慣から失敗。結局、毒に煽られてフラフラになっているところを控えていた刺客が襲い掛かるも、それでも頑強に抵抗してなかなか死ななかったそうで、死ぬまで激闘を繰り広げた。



擁護論編集

と此処まで暴君伝説で彩られた彼であるが、コンモドゥスの記述を後世に残した歴史家の中で唯一の同時代人で尚且つ当時は若手元老院議員としてコンモドゥス本人とも交流が有ったカッシウス・ディオは統治の欠点や晩年の堕落は批判しつつも、皇帝即位当初の性格や態度に関しては「自身の生涯の中で出会った最も誠実な人物」として高く評価しており、寧ろ誠実で清廉な青年を堕落させた周囲の奸臣達に憎悪を向けている。

実際、父帝が崩御した時点では自身に割り振られた公務は問題なくこなしており、後継者候補脱落に値する程の失態はしていないし、後述のように将兵やその家族に対する気遣いも出来ていたので彼等の支持は獲得していた。


また、「敵を痛撃したタイミングで有利な講和を結ぶ」と言うマルコマンニ戦争の決着が戦争の泥沼化と軍事費の無節操な増大を防ぎ、国民の負担を抑えたのも紛れもない事実であり、一気に戦争に完勝する自信が無い状況での決断としては一理あるものである。

コンモドゥス個人の我儘、とも解釈されがちだが、多感なミドルティーン時代を泥沼の長期戦役の前線近くで過ごし、母と共に傷病兵の見舞いや戦死者遺族・行方不明者家族への詫びに回り、その母ですらその仕事の最中の事故で身体を壊して死亡、と重なれば、戦争に嫌気が差すのも当然と言えば当然である。

講和を結んだ際にも敵の捕虜になったローマ人の全員返還に関しては強い意志で押し通しているので、捕虜やその家族に対する気遣いを忘れていなかった点は明白である。

その後も自国から戦争を仕掛けるような真似は決して行わずに防衛重視の戦略を徹底しており、185年に起こったブリタニア駐屯軍団の反乱においても近衛隊長ペレンニウスと協力して穏便かつ迅速に事態を収拾して、反乱の波及を防ぎ悪影響を最低限に抑え込んでいる。


寧ろ182年の皇姉ルキッラによるコンモドゥス暗殺未遂事件で皇帝与党の結束が崩れ、サポート体制が崩壊して親衛隊長官ペレンニウスへの権力集中が起こったのが以降の混乱に繋がっていると言う見解も根強い。

ペレンニウス自体は先のブリタニア駐屯軍団の反乱鎮圧で手腕を見せたように軍人としても政治家としても有能な人物であったが、私的には青少年の前で悪い遊びを行う、公的には元老院や名門貴族を軽視して事態の短期解決を優先させる等の問題もあり、彼の欠点をフォローしていたルキッラの夫ポンペイアヌス達が失脚したので元老院と皇帝側近の仲介役が居なくなったのがコンモドゥスの孤立と暴走を起こす原因となってしまった。

少なくとも統治初期のコンモドゥスは多少遊び好きな面はあっても、与党重鎮の正しい意見を理解して提案者と連携して実行に移すぐらいの頭脳も戦死者・行方不明者家族を気遣う優しさも有ったし、統治の全期間において無益に戦火を煽って軍事費の増大と国民への重税を招くような真似はしなかった。


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