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概要編集

首都テヘラン
面積164万8195平方キロメートル
人口8675万8304人(2022年7月)
建国1979年4月(イスラム共和国の成立)
通貨リヤル
公用語ペルシャ語
国家元首(職)大統領
政体大統領制 イスラム共和国

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシャ語:جمهوری اسلامی ایران、英語:Islamic Republic of Iran、漢字表記:伊蘭)は、中東・西アジアに位置するイスラム共和国。イラン(イーラーン)とはペルシャ語で「アーリア人の国」という意味である。イランの語は紀元前10世紀頃のゾロアスター教の聖典の『アヴェスター』に見られ、224年4月に存在したササン朝ペルシアも正式な国号はイランであった。


北部にカスピ海、南部にペルシャ湾オマーン海インド洋が広がっており、ペルシャ湾の向こうに湾岸諸国サウジアラビアが存在している。

西にイラク、北西部はトルコアルメニアアゼルバイジャンとも国境を接している。東にアフガニスタンパキスタンが位置している。


歴史的にいわゆるペルシアと呼ばれた地域に当たるが、「ペルシア」はギリシア人による呼称が定着したものである。日本でも人気のある国際放送のイランラジオはこの国から提供されている。人口の大部分が周辺諸国と同じくイスラム教徒で占められているが、スンナ派では無く少数派のシーア派で、その中でも1501年12月のサファヴィー朝成立以来十二イマーム派を国教とする多民族の国である。欧米ではイスラム教原理主義国の1つとされており、実際に政府から宗教的な理由による各種の規制が厳格な国としても知られる。


国名について編集

ペルシア時代編集

古代ペルシア帝国(アケメネス朝・ハカーマニシュ朝)ではダレイオス1世碑文などで自らを「アルヤ」と称しており、紀元後1世紀に北インドを征服したクシャーン朝でもカニシュカ王等が自らの言葉を「アルヤの言葉」と称している。古代のインド・イラン系の人々の自称が「アルヤ」であったようで、これが拡大解釈されてインド・ヨーロッパ語族の始祖としての今日の「アーリア人」という名称の直接の起源と言える。


イランの登場編集

3世紀にイラン高原を統一したサーサーン朝はかつてのペルセポリスの近くを発祥とした事もあって自らを古代ペルシア帝国の後裔と自認していた。サーサーン朝の初代皇帝アルダシール1世やその後を継いでイラン高原とメソポタミア平原を支配したシャープール1世はパルティア語と中期ペルシア語(パフラヴィー語)の合壁碑文をいくつか碑文を残しているが、そこで自らをパルティア語では「アルヤーンと非アルヤーンの諸王の王」、中期ペルシア語では「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」と名乗った。

このパルティア語での「アルヤーン(Aryān, 'ry'n)」の中期ペルシア語形が「エーラーン(Ērān, 'yl'n :パフラヴィー語文では本来のr音も1音も、1の文字で筆写された)」である。サーサーン朝では自らの支配領域を他にも「エーラーン・シャフル(Ērān šahr)」とも呼んでおり、この「エーラーン(Ērān)」がイスラム化を経て近世ペルシア語(現代ペルシア語)での語形が「イーラーン( ايران 'yr'n,Īrān)」であり、現在の国名のイランはこの中期ペルシア語形・近世ペルシア語形を直接の起源とする。


ペルシャ?イラン?編集

しかしながらアラブ征服経たイスラム時代以降しばらくは、「イーラーン」も「イーラーン・シャフル(エーラーン・シャフル)」も(当のイラン系のイスラム教徒達にとっても)サーサーン朝時代の歴史的な領域概念程度にしか認識されておらず、現実の地名的なものとはあまり考えられていなかった。「ペルシア人」という呼称は主にギリシア人・ローマ人達がパールサ地方から勃興した古代ペルシア帝国などに対して使用していた呼称で、サーサーン朝も同じパールサ地方(現在のファールス州、パールス州とも)から出現した事から、それ以降もヨーロッパで使用された。中央アジアのソグド人も「パールス人=ペルシア人」と呼んでいた事から、唐などの中国方面では「波斯」と音写した。


名称確定編集

ところがモンゴル帝国とイルハン朝時代に古代への関心と現実の支配領域への関心が高まり、イラン高原周辺を地理的に指して「イランの地(Īrān Zamīn)」という言い方が用いられるようになった。これが続くティムール朝やサファヴィー朝でも使用され続け、1934年12月25日にパフラヴィー朝は呼称を「ペルシア」から「イラン」に改めるよう諸外国に要請し、1935年3月21日に発効した。しかし第二次世界大戦ではイラクと紛らわしいというイギリスの要請で、「ペルシア」の国号も引き続き使用可能にすると共に、1959年には公式に「ペルシア」の使用も可能とした。現在の正式名称はイラン・イスラム共和国であり、1979年2月に発生したイスラム革命によって君主制を敷いていたパフラヴィー朝が打倒されて同名称となる。この時に改めて「ペルシア」が廃されて「イラン」に一本化された。


地理編集

イランの大部分の地域は乾燥気候であるが標高1000メートル以上あるイラン高原に立地した国である。高原性の気候である事から、やや緯度が低めであるが四季がある。面積は中東ではサウジアラビアに次いで2番目に広く、北部を東西に連なるアルボルズ山脈と北西部から南部に連なるザグロス山脈の大きなふたつの山脈があり、その間を中部から南東部に広がる広大なカヴィール沙漠がパキスタンアフガニスタン国境まで続く。

これらの山脈は標高5000メートルクラスの山々が連なり、万年雪で覆われているところも多い為、これらの山間地域や麓では灌漑設備をともなった農地や都市が古代から築かれた。また灌漑が行き届かないところでも天水農耕や遊牧が盛んであり、テュルク系やイラン系の遊牧民がこれらの高原部や草原部で生活している。アルボルズ山脈では冬は雪に覆われる為、首都のテヘラン近くにはスキー場もある。


北東部のホラーサーン地方は、中央アジア等でも一般的なカナート農法の発祥地とされているところで、現在でも高山から地下水路を掘削して農地を灌漑するカナートが多数存在する。古代から各種の果樹栽培が盛んな土地で、小麦・大麦といった穀物の生産も盛んだが、ブドウ柘榴アーモンドピスタチオの発祥もこのイラン高原周辺と言われている。ちなみに「レモン」もペルシア語の「リームーン」から来ている。国内の大半は乾燥地域だが、北部のアルボルズ山脈北麓でもあるカスピ海沿岸部は中東では珍しく湿潤地域で、柑橘類木綿の栽培・養蚕も盛んである。

古代から羊毛を主体とした織産業が盛んで、絨毯の発祥地ともされている。特にペルシア絨毯大航海時代前後からヨーロッパから盛んに買い付けされていた重要産業の一つで、サーサーン朝によって養蚕が奨励されてからは羊毛以外にもシルク絨毯も日常的に生産・消費されている。


首都のテヘランは、アルボルズ山脈南麓に開かれた都市である。中世までイラン高原の中核都市の1つであったレイ(Rayy)の北の郊外にあった1村落であったが、モンゴル帝国軍の侵攻によってレイが破壊された後は振るわず、18世紀末にカージャール朝の都が置かれた事で発展した。カスピ海から少し南側にあり海に面していないが、イラン高原からカスピ海沿岸の主要都市アーモル等を結ぶ街道筋が隣接していた事もあって、歴史的にカスピ海沿岸の諸勢力とも多く関わって来た。


テヘラン自体が中東最大の都市であり、人口は東京より多く1400万人であり、緯度は北緯35度で東松山市松本市大津市天津などと同じ緯度である。モータリゼーションの発達と人口増加で、近年ではテヘラン周辺の上下水道の整備や大気汚染の深刻化が問題となっている。


歴史編集

近代以前はペルシャを参照


列強の台頭編集

1796年4月以来イランはカージャール朝が統治していた。19世紀半ばに欧米からの影響で「ペルシア・ナショナリズム」が勃興し、「ペルシア人」の過去の顕彰が盛んになるようになった。しかしこの時期は欧米列強による「グレート・ゲーム」の真っ只中であり、北方からはロシア帝国・東方からはインド領などを通じてイギリスの外圧に晒された。1908年5月にイランで石油が発見されると、1909年4月にイギリスはアングロ・ペルシャ石油会社を設立し、イラン経済は本格的に外国による支配の危機に直面する事となった。


反英運動編集

1905年9月に日露戦争でロシアが日本に敗北するとイランでは改革運動が活発化し、第1次立憲革命によって憲法と議会が設立された。1907年8月に英露協商でカージャール朝の独立は承認するものの、イギリスとロシアがイラン領内の勢力を南北で二分する協定が締結された事で、皇帝のモハンマド・アリー・シャーが立憲派を弾圧した。

ところが、立憲派が鎮圧部隊を逆に打ち負かして首都のテヘランに進軍した事で、アリー・シャーがロシアへ亡命。アフマド・シャーが新たに即位したものの、国内は各地方政府が乱立する無政府状態に陥った。アフマド・シャーは幾度かイギリスやロシアの援助によってクーデター側を鎮圧したが、反イギリス運動は年々高まる一方であった。


第一次大戦編集

1914年7月に第1次世界大戦が勃発すると、オスマン朝がイラン領内に侵攻してさらに混乱は広がり、ロシア革命の影響でイギリスはイランを拠点にしてロシア領内に干渉するようになった。1921年2月にペルシア・コサック師団の司令官であったカスピ海南部マーザンダラーン地方出身のレザー・ハーンがテヘランを占拠し、1919年8月に締結されたイギリス・イラン協定を破棄して治外法権を撤廃させた。更にイラン国軍の司令官・首相となり、国民議会が運営されるようになる。

1925年12月にアフマド・シャーが退位してカージャール朝が滅亡し、アフマド・シャーはフランスに亡命した。同月にレザー・ハーンは自ら即位してレザー・シャー・パフレヴィーを名乗り、パフレヴィー朝が成立した。レザー・シャーは司法改革・国民銀行の設立・徴兵制など国の近代化を次々と断行した。財政面ではアメリカから財政顧問を招聘し、まだ女性蔑視の風潮を払拭するべく女性解放・教育改革などを実行した。


成立編集

1935年3月に国名を「ペルシア」から正式に「イラン」に改称した。1938年8月にイラン縦貫鉄道を設置させ、後に東部のホラーサーン地方の中心都市で国内屈指の巡礼地であるマシュハドまで延長させた。このように急速な近代化を推進したが、その急速さと皇帝による独裁体制は国民からの支持と同時に反発も招いてもいた。特にイスラムを軽視する政策は、保守的なウラマー層からは非難されていた。


第二次大戦編集

1939年9月にイランは中立を宣言したが、イギリスとソ連に対する懸念からレザー・シャーは枢軸国寄りの姿勢を取った。政策面でも親ナチス・ドイツ的であった為、1941年8月にイギリス・ソ連の連合軍による侵攻を受ける。これによってレザー・シャーは、息子のモハンマド・レザーに譲位する事を条件に退位しなければならなくなった。レザー・シャーはモーリシャス諸島・南アフリカに亡命し、1944年7月にヨハネスブルクで死去した。1945年9月に終戦となった後はイギリス軍・ソビエト連邦軍が撤退し、北西部では一時期親ソ連の地方政府が樹立されたが、ソビエト連邦軍の撤退直後にイラン軍に制圧されてイランの分裂は免れた。


欧米の介入編集

1951年4月にモハンマド・モサッデクが首相に就任し、国内の石油関連施設の国有化を強力に推進した。それまでイギリス資本であったアングロ・イラニアン石油会社のイラン国内の資産を国有化し、イラン南部の国内最大の石油精製拠点であったアーバーダーンにある石油生産設備から西側諸国を追い出した。これと併行して親ソ連政策を進めていた為、MI6CIAは共同してモサッデクを失脚させ、親アメリカ・イギリス的な皇帝のモハンマド・レザー・シャーの権力を回復させた。


革命編集

1979年2月にホメイニによるイラン革命により、反アメリカ主義に移行してアメリカの傀儡王朝に苦しめられた結果から、アメリカ大使館には反アメリカの壁画が掲載されている。イスラム教の規範順守を厳格化し、特に視覚効果が高いものとしては、女性の肌の露出をしないような服装になったのは、欧米化に対する反動の側面が強かった。それまで飲酒についても規制がやや緩めであったが、革命以降完全に禁止され違反者は処罰されるようになった。


イラン・イラク戦争編集

1980年9月にサダム・フセイン政権が、シーア派が半数を占めるイラクがイスラム革命の余波を及ぶことを懸念してイランを攻撃した。その際にアメリカがイラクを支援したのは有名な話である。1988年8月に停戦が実現したものの、1989年6月にホメイニが死去し、イラン・イスラム革命からの戦時体制からの転換と戦後復興が課題となった。特にアメリカ大使館占拠事件以来アメリカからの経済制裁が続行していた為、石油施設の復旧やヨーロッパ・日本・中国などとの貿易を拡大する必要に迫られた。


冷戦編集

1997年8月に大統領に就任したハタミは革命政権を支えた1人であったが、いわゆる改革派の1人で、闇雲な保守主義や外交関係の閉塞については批判的であった。冷戦終結後に東ヨーロッパ・アフリカなどで続発した民族紛争とパレスチナなどでイスラム過激派の勃興が相次ぐ中、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』がベストセラーになり、イスラムと欧米諸国の対立・「文明の衝突」が必然とする言説が流布した。しかしハタミは外交政策を進める中で、むしろ「文明間の対話」こそが重要であると国際社会に訴えた。


近況編集

2005年8月にアフマディネジャドが大統領になり、国内の反アメリカムードが再び強まった。テヘラン市長を勤めたアフマディネジャドは、ハタミが結果的に失敗した国内経済の復興と対欧米への強硬姿勢を外交方針に掲げたが、アメリカの経済制裁による国内経済への影響力を払拭する事は出来なかった。2013年8月にロウハニが大統領に就任し、ロウハニはアフマディネジャド時代に退潮したアメリカを含む欧米との関係改善を目指しており、国内の規制緩和にも意欲的で、前政権時代はやや退潮していたムスリム女性の社会進出がまた進み始めている。


国際関係編集

ソ連時代、特にイラン革命以前は敵対関係にあったが、ソ連崩壊後は反アメリカ主義の列強として協力するようになり、現在は物々交換を行うほどである。貿易決済ではルーブルとイランリヤルの相互決済に移行し、アメリカドルユーロを排除する動きが見られる。2022年7月にプーチンはイランを訪問してハメネイ師ライシ大統領の2者と会談し、これは両国の友好関係を象徴するものとなった。


アフマディネジャド大統領の頃に関係を強化、現在もミサイル開発などで協力している。共通点としてサウジアラビアシオニスト政権のイスラエルとは、外交関係を樹立していない点である。その為この3国でアメリカ・ヨーロッパに関する批判が多く展開されており、報道機関の報道でもそれが窺える。流石にミサイル発射に関しては非難。


2001年6月に設立された上海協力機構の関係などで、比較的友好関係にある。特にイラン産原油の取り引きでは中国は1番の大口顧客であるので、アメリカドルを止めて中国元とイランリヤルの相互決済に移行している。ただし中東の問題では中国は欧米側に付くか、ロシア・イラン側に付くかで動いているので、完全にイランの味方をしてくれるとは限らない。現にシリア問題で政権を支持するロシア・イラン・北朝鮮側と、反体制派を支援する欧米側に付くかが不透明だからである。石油の取り引きを行っているものの、両国の自由貿易協定は締結されていない。

イスラエル建国から20年は良好な関係を築いてきたが、イスラム革命により、エルサレムを奪ったイスラエルに憎しみを向けるようになる。イランは現在でもイスラエルを国家承認しておらず、反イスラエルを国是としている。イランで行われる反米デモでは「アメリカに死を」と合わせて「イスラエルに死を」と人々が叫び、敵意を示す光景がみられる。

対するイスラエルはモサドを送り込み、イラン核開発の父を暗殺するなどして対抗している。アメリカはイスラエルを支援し、イランと対立している。アメリカ大統領が交代するたびに情勢が大きく変化するため、一触即発の状態が続いている。

しかし、歴史的にイランはペルシアの王・キュロス2世はイスラエル民族を助けた王であり、異邦人としては異例の、メシア(油注がれた者)として尊敬されている。


2021年東京五輪では柔道男子81キロ級イスラエル代表サギ・ムキとイラン出身のサイード・モラエイとのツーショットが公開され、政治的対立を乗り越えての握手は大きな注目を集めた。

参考


隣国ということもあり関係は非常に密接。しかし、イラク戦争後、イラクはアメリカと友好関係になったので、アメリカ、イラン、イラクの3国は三角関係になっている。


  • 他の中東諸国

他の中東諸国との関係は非常に複雑で、日本では単純に「スンニ派とシーア派の対立」と報じられることが多いが、ガッツリと政治体制や民族主義の問題も絡んでいる。同じイスラム教国といってもペルシア人とアラブ人は民族的起源が異なり、ペルシア人はイスラム教に改宗してもその言語と習俗を放棄しなかった誇り高き民族である。イラン人は古代より大帝国を築いてきた偉大な民族であり、アラブ人は神の言葉を授かった選ばれた民族という自負があり、そこに国家間の思惑・宗派の違いが絡まってイランとその他のアラブ国家は複雑な様相を見せている。


その点でもっとも睨み合っているのが君主制を敷き、2大聖地を有するサウジアラビア。サウジアラビアにとっては、共和制かつシーア派のペルシア人国であるイランは安全保障上の脅威でしかないが中国の仲介で国交回復に動き出した



日本との関係編集

基本的には友好関係にあるが、対イラン制裁・アメリカ追従政策に関しては批判する傾向が強い。しかし原爆投下に関してはロシアと同様にアメリカを非難しているので、アメリカから離れた日本なら両国関係は更に良好になるだろう。イランが親日的である理由は、石油の国有化の際に日本との取り引き間で発生した日章丸事件が挙げられる事が多く、この事件の詳細は国民的ベストセラーとなった百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』でも大々的に取り上げられている為、再び認知されるようになった。


英語は喋れないが日本語が喋れる人・日本の事を好意的に見る人も多く、その事をイランラジオのラジオ日誌でも報じている。経済制裁が解除された後は再び関係改善などに動き出しており、石油などの貿易決済にアメリカドルとユーロを停止し、日本円とイランリヤルの相互決済が検討されている。日本との外交政策・投資は、歴史的に安全が保障されたエネルギーの供給に対する要望に著しく影響されていた。


イランではおしんが大人気であり、視聴率が90パーセント超えという驚異の人気を誇る。


政治編集

基本的に立憲制の議会制民主主義の国ではあるが、「イスラム共和国」という呼称に象徴されるように、伝統的なイスラム教の知識階層であるウラマー達が国政を指導するシステムである。イランにおいても行政府・立法府・司法府の3権が存在するが、イスラム共和国の根幹をなす「ヴィラーヤテ・ファギーフ(イスラム法学者の監督権)」の理念に基づいて、それらの3権・軍を統括する「最高指導者」が存在する点が既存のイスラム諸国の体制と大きく異なっている。行政府のトップは大統領であり、立法府には一院制の議会・「最高指導者」を選出する権限を有するイスラム法学者達からなる「監督者評議会」などが存在する。


社会編集

識字率は80パーセント越えで中東では最も高い数字である。しかし中東の中では出生率が低く、数字としては1.92であるが、それでも日本ドイツ・南ヨーロッパ・韓国・中国・シンガポールなどよりは高い。


女性進出編集

中東で女性の社会進出が最も進んでいる国だが、上述のようにイスラム教シーア派十二イマーム派を国教としており、基本的に戒律は厳しめであり、外にいる時では女性は肌の露出を控えなければならない。女性の場合は外国人でも非イスラム教徒でもへジャブを着用しなければならず、豚肉や酒は表向きは販売されていない。

しかし、イラン革命直後の全身黒い衣装で覆うようなチャードル姿の女性は減少傾向にあり、外出時のヘジャーブの着用は一応遵守しながらも、近年のイラン女性では年齢を問わず洋装その他の服装に柄物のヘジャーブを思い思いに着こなすスタイルが一般的であるが、裏ではイスラム法を守っていない人も存在する。

それでも、イスラム教の戒律を守りながらも政治や経済等の各方面で活躍する女性も多い。1988年8月にイラン・イラク戦争が停戦した後、現在では若年層が人口の半分まで増加している事もあって以前ほど戒律は厳格でなくなっている。また革命を主導していた世代も改革派と保守派の対立もあり、社会全体で規制緩和の動きが見られる。


治安に関する誤解と真実編集

多くの人々からはアフガニスタンに隣接しているため、戦争紛争が絶えず危険で治安が悪いというイメージを持たれており、かつてアメリカジョージ・ブッシュ大統領は、イランをイラク北朝鮮と共に大量破壊兵器を保持しているとして『悪の中枢』と呼んでいた。アメリカと同盟関係にある日本においても、このイメージは現在も蔓延しているとされる。


しかし実際にイランへ旅行に出向いた人々の反応は全くの逆であり、「治安は非常に良く、首都テヘランや観光名所に至っては夜中に外に出歩いても安全、下手をすれば世界一治安が良い国と言われる日本と同レベルではないかと思うほど」だという。ある日本政府関係者の話によれば、「イランは中東の中で1番治安良いですよ、ドバイを入れてもNo1だと個人的には思ってます」とのことだが、イスラエル情勢を受けて日本の外務省は渡航中止を勧告。


戦争・紛争と同じくらい心配されているのが地震、日本と同様に地震多発国でもある。イランは国土の9割が断層地帯の為、国内のほとんどにて巨大地震が起きるリスクがある。


民族編集

2022年7月の推計では、人口は約8675万人。しかしながら人口の大部分は英語フランス語などと同じインド・ヨーロッパ語族の一派のペルシア語を話すペルシア人の国であり、イスラム教国家とはいってもアラブ人主体の国ではない。宗派もアラブ諸国でありがちな厳格な教えを持つスンニ派ではなく、比較的教義が緩いシーア派に属している。これはドイツに並ぶ数字だが移民を除いたドイツ人よりも多く、30歳以下の若者が3分の2を占める。

北西部のアーザルバーイジャーン地方などでは歴史的な経緯からアルメニア教会のコミュニティーも多く存在し、北西部に隣接するアゼルバイジャントルクメニスタンと民族的に同じくトルコ語とも言語的に近いテュルク語の一派アゼリー語を話す人々やがテヘラン等でも多数混在している。セルジューク朝やサファヴィー朝などのテュルク系の人々との影響もあって、特にテヘランを含む北部ではペルシア語とアゼリー語のバイリンガル人口も多めである。


宗教編集

イスラム教シーア派十二イマーム派を国教としており、基本的に戒律は厳しめである。ただし、国内には国境周辺のクルド人やアラブ人でスンナ派住民が多く、アフガン紛争の難民達もスンナ派である場合が多い。またペルシア語話者であるペルシア人以外にも首都のテヘラン周辺にはテュルク系のアゼリー語(アゼルバイジャン語)を話すアゼリー人達もカージャール朝以前から日常的に混在している。また、キリスト教の一派アルメニア教会を信奉するアルメニア人も北西部中心に多くおり、ユダヤ人やゾロアスター教徒も古くから多数存在する。その為現在のイランはシーア派十二イマーム派を国教とする「イスラム共和国」ではあるが、多民族・多宗教の国である事も自認している。


世界的に見ても唯一のイスラム教シーア派の国であるため、周辺のイスラム諸国とは何かしら対立関係を抱えている場合が多い。さらに湾岸諸国やサウジアラビアは専制的な君主国家が多いため、イラン・イスラム革命以降、ペルシア湾沿岸のシーア派住民の民衆暴動が体制打倒に向う事を常に警戒している側面も強い。


イラン国外のシーア派との関係についても、もともとシーア派の発祥地は隣国のイラクであり、アリーが政府をおいたクーファや廟墓のあるナジャフ、カルバラーなどの殉教地等のシーア派の旧蹟の多くもイラクにあるため、今日でもイラク南部はシーア派の住民がほとんどである。しかし、アラブ征服の前線がイラン高原や中央アジアであったため、イラン高原ではアリー家の後裔達が多数移住していた。ウマイヤ朝を打倒したアッバース革命の直接の軍事力はイラン高原と中央アジアを根拠地としたホラーサーン軍団であり、これにアリー家の人々も参加した事でアッバース朝は成立した。イラン高原はこういった背景を持っていたため、アリー家の後裔だけでなくアリー家を信奉する人々やシーア派自体がもともと多かった土地でもあった。


イランのイスラム革命はホメイニー師が唱導する「イスラム法学者の統治(ヴィラーヤテ・ファギーフ)」を基本理念としていた。しかし、同じシーア派でもイスラム法学者はじめ伝統的なイスラムの知識階層であるウラマー層では、改革派や保守派のなかでも「ウラマーとは民衆とともに生きるべきであり、あるいは民衆の側に立って政府を糺すべき立場であった、積極的に政府に関与し政治を専断すべきではない」とする意見も多かった。そのため、2000年代のイラク戦争で度々米軍やイラク暫定政府とイラク国民との仲裁にあたったイラクのシーア派十二イマーム派の重鎮であったスィースターニー師は、ホメイニー師の唱える「イスラム法学者の統治」には概して批判的なウラマーでもあった。


イラン・イスラム革命の前後からイランのシーア派指導者がイラク側に亡命する事も多く、政治的な主張の異なるシーア派指導者たちがイラク南部で同居する場合も多く見られた。ホメイニー師が唱導する「イスラム法学者の統治」に共鳴するイラクのシーア派住民も多く、イラクのサドル派のシーア派住民などが「イスラム政権の樹立」を掲げるのもこの影響の1つである。


偶像崇拝編集

イランの町に出ると、ホメイニー師の肖像画が至る所で見られ、壁画の芸術などで見ることが出来る。元来イスラム教偶像崇拝が禁止されていると言われているが、イラン高原ではイスラム化以降も「肖像」・「彫像」については規制が緩い文化風土が保たれていた。

そのため、イスラム教諸国でありがちなメディアにおける歴史上の人物に対する露出を偶像崇拝視する問題もイランではそれほどは見られない。その証拠にイラン革命の指導者であるホメイニー師の肖像画が街中で飾られている事や、シーア派の聖人崇敬の中心でもあるイマーム・アリーやその家族の肖像が室内に飾られる事もイラン国内では普通で、これらは基本的に「偶像崇拝」と見なされていないためである。


シーア派では(スンナ派の正統カリフでもある)アリーの次男イマーム・ホセインがウマイヤ朝軍に惨殺された「カルバラーの悲劇」を悼むアーシューラーの儀式が毎年行われるが、イランでは古くからこの殉教再現劇が盛んであり、また古代イラン世界を題材にした『シャー・ナーメ』の朗読劇も盛んであった。イランではこの種の過去のイスラムの聖人や歴史上の偉人達を演劇や詩文の朗読劇で追慕する習慣が根付いている。預言者ムハンマドの映画制作もこの種の伝統と習慣の延長で出て来たと理解する事も可能である。


理由編集

13世紀にモンゴル帝国がイラン高原からアナトリア、イラク全土までを征服してイルハン朝が成立したが、イルハン朝では文学作品に登場する預言者ムハンマドを含む歴史人物の肖像を描く習慣が根付き、後のティムール朝・サファヴィー朝・オスマン朝・ムガル朝でもこの伝統が継承された。

その為(唯一神アッラーは描かれる事はなかったが)イスラムの預言者ムハンマドやスンナ派・シーア派を問わず崇敬されたアリー家の人々の肖像を描く伝統は近代まで保持された。そのため、シーア派が国教とされた今日でもルーホッラー・ホメイニーだけでなく現在の最高指導者であるハーメネイー師他、(スンナ派における正統カリフでもある)イマーム・アリーやその子イマーム・ハサン、イマーム・ホセイン等のアリー家の肖像が一般に見られる。


スンニ派との対立編集

「肖像」についての文化的な規制が他のスンナ派諸国(特にワッハーブ運動・サラフィー主義の影響の色濃いペルシア湾岸諸国)と比べて緩いので、当然ながらエジプトなどのスンニ派の国からは神の使者ムハンマドなどを含めて非難の対象になっている。なのでイランは他のイスラム教の国とは一線を画しており、スンニ派(アラブ系諸国)の国からはイランが非難を食らってもイランを相手にしないが、イラン国内でも特にイラク国境に近いクルド人や南部のアラブ人等のスンニ派は存在する。故にスンニ派で戒律が最も厳格なワッハーブ派でアメリカと友好関係にあるサウジアラビアとは長年敵対しており、イランの報道機関でもサウジアラビアを頻繁に批判する。


通貨編集

通貨はイランリアルが採用される。1米ドル=約43リアルであり、紙幣の顔はホメイニー師が採用される。因みに換金は中国元ロシアルーブルを所持しておくと楽である。中国元は日本では1元から、ロシアルーブルは100ルーブルから両替可能。1元は約920リアル、1ルーブルは約80リアルになる。


アメリカドルの排除編集

イランではアメリカドルでの決済の排除が加速化しており、ロシア・中国を始めとする国でアメリカドルでの貿易を排除している。特に石油の取り引きでの決済では自国通貨同士の決済を進めているが、ロシアと違ってユーロの決済を除外しているかは不明だったものの、ロシアとの決済ではユーロも除外する事が決定した。その為ロシアとの決済ではルーブルイランリアルの相互決済を進めており、アメリカドルとユーロの排除が確定した。


余談編集

日本の都道府県に例える編集

イランを日本の都道府県に例えると新潟県に該当する(テヘラン=新潟市エスファハーン=長岡市)。この2つの都市は大物の指導者が出たところ(田中角栄ルーホッラー・ホメイニー)、ロシア中国と友好関係にあるところが共通している。


広島県にも似ている。(テヘラン=広島市、マシュハド=福山市エスファハーン=尾道市、タブリーズ=呉市

南側を海に面して温暖な気候だが、北側は山がちで比較的寒く雪がよく降る気候で、核兵器を語るに欠かせない地域である事、中東中国地方の中心であるがそこ全体への求心力が低い事、とあるモノ(反アメリカ・ヤクザ映画)のせいで悪いイメージ(悪の枢軸・ヤクザが街を闊歩)がある点が似ている。


イラン歴について編集

イランではイラン歴が使用されており、ペルシア語でも西暦の意味であるمیرادیを使わないとイラン歴になるので注意が必要である。例としてイラン・イスラム革命が起きた日である西暦1979年(昭和54年)1月31日はイラン歴に直すと1357年バフマン月11日と表す。


イラン歴の新年は基本的には西暦3月21日から始まり、1~6月にあたる月は31日まで、7~11月にあたる月は30日まで、12月に当たるエスファンド月は29日まであるが閏年に当たる年は30日まで存在する。実際にイランラジオ(現PARS TODAY)でも日付を紹介するとき、西暦とイラン歴を併用している。因みに西暦は太陰暦(即ちの暦)だが、イラン歴は和暦と同様の太陽暦である。以下の表が付きの対応表である。


イラン歴月イラン歴月名イラン歴月日数西暦該当日
1ファルヴァルディーン月31日3/21~4/20
2オルディーベヘシュト月31日4/21~5/21
3ホルダード月31日4/22~6/21
4ティール月31日6/22~7/22
5モルダード月31日7/23~8/22
6シャハリーヴァル月31日8/23~9/22
7メフル月30日9/23~10/22
8アーバーン月30日10/23~11/21
9アーザル月30日11/22~12/21
10ディ月30日12/22~1/20
11バフマン月30日1/21~2/19
12エスファンド月29日※2/20~3/20

※12月(エスファンド月)は閏年の場合、30日になる。難しいけど、覚えるしかない。それと西暦とイラン歴では700年位の差がある点は要注意。以下がその年で起きたニュースをイラン歴や和暦を使って換算した。


西暦イラン歴和暦主なニュース
1939年1317年~1318年昭和14年イランでの第二次世界大戦勃発
1979年1月31日1357年バフマン月11日昭和54年イラン・イスラム革命
1980年9月21日1359年シャハリーヴァル月31日昭和55年イラン・イラク戦争勃発
1988年8月20日1367年モルダード月29日昭和63年イラン・イラク戦争停戦
2001年9月11日1378年シャハリーヴァル月20日平成13年アメリカ同時多発テロ事件発生
2004年8月3日1383年モルダード月13日平成16年マフムード・アフマディーネジャード政権発足
2013年8月3日1392年モルダード月12日平成25年ハサン・ロウハーニー政権発足

イラン歴を詳しく知りたければイランラジオの冒頭の日時紹介の時に聞くことをお勧めする。


イランラジオ編集

イラン・イスラム共和国国際放送を参照。


大衆文化など編集

映画編集

一般にはあまりイメージが定着していないかもしれないが、イランはアッバス・キアロスタミやジャファール・パナヒ、アスガル・ファルハーディーなどの優れた映画監督を擁し、カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの3大映画祭でもしばしば主要賞の受賞作を出している知る人ぞ知る映画強豪国である。日本国内のレンタルビデオ店や配信サービスでも数は多くないがこうした国際的に著名な監督の作品を中心にイラン映画が出回っている。ちなみにアッバス・キアロスタミは、2012年9月に日本でも映画を1作制作している(『ライク・サムワン・イン・ラブ』、出演:奥野匡、高梨臨加瀬亮ほか)。


1979年2月のイラン革命より前のパフラヴィー朝時代にはエンタメ作品が主流であったが、1980年代以降は宗教思想への向き合い方や男女問題などのイラン社会の問題を扱った社会派な作品が多く、それに加えてペルシャの文学的・詩的な文化的土壌から来る高い芸術性があることで国際的に評価されている。一方で検閲や欧米文化の規制などの事情があって芸術の自由があまり利かないという難点があり、なんとか当局の規制を逃れるように工夫して作られた作品や、国に無許可で制作した作品が少なくない。後者の場合は国外では評価されているが当のイラン国内では上映禁止、なんていうこともある。


イラン映画の特徴として、キアロスタミの初〜中期の作品に代表されるように、子供を主役にしたり、職業俳優ではなく素人をキャストにした擬似ドキュメンタリー風の独特な作風を用いることがしばしばあるが、これらはそうした政治的事情への対策に端を発して形成されたものである。


主なイランの映画作品

  • 『友だちのうちはどこ?』(1987,アッバス・キアロスタミ監督)
  • 『桜桃の味』(1997,アッバス・キアロスタミ監督) カンヌ パルム・ドール
  • 『風が吹くまま』(1999,アッバス・キアロスタミ監督) ヴェネツィア 審査員特別賞
  • 『チャドルと生きる』 (2000,ジャファール・パナヒ監督) ヴェネツィア 金獅子賞
  • 『オフサイド・ガールズ』 (2006,ジャファール・パナヒ監督) ベルリン 銀熊賞(審査員グランプリ)
  • 『彼女が消えた浜辺』 (2009,アスガル・ファルハーディー監督) ベルリン 銀熊賞(監督賞)
  • 『ペルシャ猫を誰も知らない』 (2009,バフマン・ゴバディ監督) カンヌ ある視点部門審査員特別賞
  • 『別離』 (2011,アスガル・ファルハーディー監督) ベルリン 金熊賞・銀熊賞(監督賞・男優賞・女優賞)
  • 『人生タクシー』 (2015,ジャファール・パナヒ監督) ベルリン 金熊賞
  • 『セールスマン』 (2016,アスガル・ファルハーディー監督) カンヌ 脚本賞・男優賞
  • 『悪は存在せず』 (2020,モハマド・ラスロフ監督) ベルリン 金熊賞

イラン国歌編集

関連キャラクター編集


外部リンク

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イランの歴史上の人物編集

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イランの古代王朝編集



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ルバイヤート シャー・ナーメ


英雄編集

ロスタム アーラシュ


世界遺産編集

チョガ・ザンビール ペルセポリス フィン庭園


イランを舞台とする作品編集

ゴルゴ13(実写映画版)

桜桃の味(映画)

ペルセポリス(漫画・映画)

不毛地帯(小説)

海賊とよばれた男(小説・映画)


イランをモチーフとした作品・キャラクター編集

《作品》

アルスラーン戦記 … 中世ペルシアをモデルとした架空戦記。

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