概要
イスラム教徒のうち、預言者ムハンマドの従兄弟にして娘婿であったアリーとその子孫をイスラーム共同体全体の指導者(イマーム)と仰ぐ党派の人々を指す。もともとこの「アリー(とその子孫をイマームと仰ぐ)の党派」という意味で、アラビア語で「シーア・アリー」と呼ばれていた。「シーア(شيعة Shī‘a)」という語自体が「派」を意味するため、「シーア派」は「派の派」という重複表現となるが、アラビア語やペルシア語等においても、「シーアの民(ahl al-Shī‘a)」等の表現以外にも「シーア」+形容詞をつくる -ī がつく「シーイー(شيعي Shī‘ī)」という言い方で「シーア派の」「シーア派(信徒)」等が表現されて来たため、日本語においても慣例上シーア派と表記される。
スンニ派(スンナ派)と共にイスラム教の2大宗派の1つで主にイマーム(指導者)や血統を重視する側の方である。スンニ派とは使用するハディース集が異なる。また歴代イマームの言行も規範の源泉とする。イマームには代々シャーリア(イスラム法)に基づく知恵が伝承されており、その言行はスンニ派のように法学者の討論を経ずとも神の意志を反映しうると見なすのである。十二イマーム派などでは、イマームは無謬であるとされる。
「分派」自体が信徒集団の呼称になる通り、イマーム・アリーのどの系統の子孫をイマームと認めるかでそれぞれの細かい分派が形成された。それぞれの宗派内部でイマーム位を巡る係争が生じると、さらに別の分派のシーア派が形成されるため、現在までのシーア派の諸分派がどれだけ形成されたか正確な状況は把握され尽くしていない。
しかしながら、歴史上、主要なシーア派の傾向をおおまかに言うと、初代イマームである(スンナ派では第4代正統カリフでもある)アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫にイマーム位を認める信徒集団である。このうち、アリーとファーティマの男系子孫うち、ハサンとフサイン兄弟、特に弟のフサインの後裔の誰がイマームとされるかで分派が形成されて来たと言える。
現在までに続く主要なシーア派は、10世紀にエジプトを支配した事で有名なファーティマ朝を輩出したイスマーイール派、現在のイラク、イランの主要な一派でイランの国教的立場にある十二イマーム派、イエメン等に存続しているザイド派等である。このなかで、イラン、イラク方面で多数派を占める十二イマーム派が最も人口が多い。
この主要な三派はいずれもイマーム・フサインの後裔から派生した信徒集団で、十二イマーム派を中心にイマーム位の継承を見ると、第4代イマーム・アリー・ザイナル=アービディーンの後継をその息子のひとりザイドであると主張したグループがザイド派となり、第6代イマーム・ジャアファル・アッ=サーディクの後継をその息子のひとりイスマーイールであると主張したグループがイスマーイール派となった。
十二イマーム派のイマームはその多くがスンニ派のアッバース朝カリフに軟禁されて生涯を送った。十二イマーム派では、第11代イマームのハサン・アスカリーが874年に毒殺された後、第12代ムハンマド・ムンタザルはガイバ(隠れイマーム)として身を隠したと見なす。隠れイマームはいつの日か再臨してマフディー(救世主)となるとされた。その日まではムジュタヒドとよばれる法学者・神学者がイマームの意思を解釈し、政治を指導することと定められている。なお、スンニ派などではそもそもムハンマド・ムンタザルの存在そのものが否定された。イスマーイール派では彼らの見なす第7代イスマーイールがガイバになったと見なす者もいるが、後継者となったイマームを認める者もいる。その直系第11代イマームを名乗ったウバイドゥッラーが率いる一派が909年にチュニジアで建国してファーティマ朝となった。ファーティマ朝は1171年に滅んだが、イスマーイル派はイマームの後継問題で多数の分派を生んで継続している。その一派が後述するニザール派である。ザイド派はザイドが戦死した後、アリーの子孫であれば誰でもイマームたりうるという立場を取った。またイマームの無謬性を認めていない。その後、何度かザイド派のイマームがイスラム世界の歴史上に登場することになった。
なお、11世紀末からシリア〜イラン方面で猛威を振るった「暗殺教団」ことハサン・サッバーフを初代教主とするニザール派は、イスマーイール派政権であったファーティマ朝の後継問題から派生したグループで、第8代ファーティマ朝カリフ・ムスタンスィルのイマーム継承権はその長男ニザールにあると主張した事に端を発している。現在、パキスタン北部を中心に活動するイスマーイール派のイマームであるアーガー・ハーン家は、このニザールの子孫を名乗った一族の後裔である。
後述のように、イマーム・フサインの「カルバラーの悲劇(殉教)」を悼むアーシューラー等、シーア派独自の宗教行事や教義を有しており、時にはスンナ派住民と対立する事も歴史的に見られる。シーア派の初代イマームであるイマーム・アリーがイラク南部のクーファを首都とし、ナジャフに墓所がある事もあり、このイラク南部がシーア派発祥の地でもある。シーア派では特に歴代イマームの殉教地や墓所などの旧蹟を巡る参詣がメッカ巡礼に次ぐかそれを凌ぐ規模で盛んであり、イラク南部はシーア派諸派の主要な参詣地域となっている。
イスラム教全体では1割だが、中東有数の地域大国イランをはじめ、アゼルバイジャンでも八割を超え、イラクでもイスラム教徒の三分の二、バーレーンでは人口の七割をシーア派が占める。
この他に、イランと並ぶ地域大国のトルコのうち2割がシーア派の近縁ともいわれるアレヴィー派とされ、シリアでは少数派ながら支配層を形成し、レバノンでも重要な政治的影響力を握る宗派であり、中東においてはスンニ派とさほど遜色のない勢力を築いているのが現状である。
現代社会におけるシーア派
イランは歴史的に歴史上の人物に対する絵画表現の伝統があることもあり、他の(周辺のアラブ地域を含む)スンナ派諸国に比べて宗教的なモチーフの図像表現への制限が緩く、テヘランではルーホッラー・ホメイニーやアリ―・ハーメネイー師以外にも、イマーム・アリーやその家族(ファーティマ、ハサン、フサイン等)の肖像画が普通に飾られている。
パレスチナ独立闘争において、アラブ諸国やイスラム教徒の連帯を掲げられていた事もあり、スンナ派シーア派を問わずシリア・パレスチナにおいては独立闘争に参加・容認派が多い。シリアのアサド政権はシーア派の一派である(イスマーイール派の影響が残ると言われている)アラウィー派を支持母体としていた事もあり、イランやイラク、イエメン等の各地のシーア派からの支援を受けてきた。
また、イラクのマーリキー政権はイラン南部のシーア派多数派地域から選ばれた事もあり、イラク内外のスンナ派住民から非常に警戒された。そのため、隣国イランの傀儡政権であるとの批判をサウジアラビアや湾岸諸国から度々される等があった。しかしながら、イラク国内のシーア派のイスラーム法学者や住人でも、必ずしもイラン型のイスラーム政権をイラク国内に樹立する事には賛成しない反対もしくは慎重なグループも多く居たため、イラク国内のシーア派住民同士で意見対立が起こった。このため、マーリキー政権もイラク国内の最大派閥であるシーア派住民を支持基盤にしながら、その政権運営は盤石とは言い難かった。
一方で、サウジアラビアやペルシア湾岸のアラブ諸国は、王族等の支配階層がスンナ派であるのに対して、地域住民がシーア派である場合も多く、経済や国政参加で格差や差別が行われ、時には宗派的な理由を盾に弾圧の対象にもなっている。
特にシーア派は聖者崇敬が盛んで、聖者が死ぬと霊廟を盛んに立てるのだが、サウジアラビアは原則認めていないため、サウジアラビア政府によって処刑されたシーア派指導者が秘密裏に埋葬されるとシーア派住民が激怒し、社会緊張を生み出すといったことも起きている。
近年、社会主義時代の国際関係もあって、シリアやイラク、イエメン等ではソ連崩壊後一時後退していたロシアの影響力が再び増しつつある。シリアとはハーフィズ・アサド政権以来、イラクではサッダーム・フセイン政権以来、イエメンではイエメン人民民主共和国(南イエメン)以来のものである。
教義
スンニ派でもカリフの資格にクライシュ族の血を引くことを求めるが、シーア派ではムハンマドの娘婿アリーの血統であることが重要視された。
シーア派の伝承においては、ムハンマドがアリーを自身の後継の最高指導者に選んだと伝わっている。
アリーとムハンマドの娘ファーティマの息子たちが次のイマームとなり、以後もアリーの血を引く人が指導者の役割を担った。
アリーの血を引く歴代イマームのうち、どの血統のどこまでを正式なイマームと認めるかによって、シーア派はさらに複数の派に分かれている。
信徒数において最大のものがイランの国教となっている「十二イマーム派」である。
血統を重視するのは、教義よりも血統を上に置いているからではなく、上記のように伝承されたムハンマドの言行によるものである。
スンニ派のハディース集に収録されたハディース(伝承)からは引き出せないが、シーア派も聖典クルアーンとムハンマドの意図に従おうとする宗派である事に変わりない。
教義の実行が厳格か緩いかはスンニ派同様、時代、地域、個人により、厳格な例としてはイランにおける同性愛者の処刑を挙げることができる一方で、イランは飲酒文化が古来より盛んで当局の目を盗んでしばしば密造・密輸した酒が飲まれている。
しかし、一般にスンナ派に比べれば神秘主義的傾向が強く、宗教的存在(預言者など)を絵画にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランでは公の場に多くの聖者、イマームや宗教指導者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ図像表現には寛大である(ただ、偶像崇拝は禁忌なため、そうした絵や描かれた相手を崇拝しているわけではない)
また、イスラム教において信仰の根幹とされている教義はスンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行となっている。
- 五信
- 神の唯一性
- 神の正義
- 預言者
- イマーム
- 来世
- 十行
- 礼拝
- 喜捨(施し)
- 断食
- 巡礼
- 五分の一税
- ジハード(努力すること)
- 善行
- 悪行の阻止
- 預言者とその家族への愛
- 預言者とその家族の敵との絶縁
また、ウマイヤ朝やアッバース朝等のスンナ派政権との抗争で敗死する等したイマーム達を殉教者として追慕する習慣が強くあり、第三代イマーム・フサインとその郎党がウマイヤ朝軍に殺されたヒジュラ暦ムハッラム月(第1月)10日を記念とする「アーシューラー」という祭日がある。これはウマイヤ朝軍によって殺害されたフサインの戦死を悼むもので、良く知られたものとしてはシーア派信徒達が街頭にくりだしてパレードし、イマーム・フサイン殉教を悼み再現する行為として、自らの身体をムチや鎖等で打ち付ける行事(タアズィヤ)がある。
因みにISILはスンナ派なのでシーア派の戦闘員はゼロである。(詳しくはサウジアラビアのワッハーブ派の記事を参考に。)
むしろアラウィー派同様「ラーフィダ(多神教徒)」扱いされ迫害、殺害の対象である。
シーア派内の異端
シーア派は平素、サラフィストといった超原理主義的な勢力を除きスンニ派の有力なウラマーから異端視されることはさほどない。イスラム教における大原則である「唯一神と預言者の絶対性」を崩していないためである。
しかし、中にはスンニ派もしくはシーア派内からも異端視扱いされる宗派が存在する。
代表的なのがシリアやレバノン、イスラエルに勢力を持つアラウィー派とドゥルーズ派である。両派はキリスト教やグノーシス主義に強い影響を受けており、メッカへの礼拝と巡礼の否定、飲酒の肯定、独自の聖典の使用、輪廻転生の概念を持っており、アラウィー派はかつてシリアの最底辺層であったが、70年代以降は支配層を構成している。ドゥルーズ派も、イスラエルにおいて少数ながらアラブ系には課せられていない徴兵義務があるなど明らかな区別を受けている。
こうした異質な信仰形態からスンニ派のウラマーの一般認識においては、改心も納税による保護も認められない、殲滅すべき対象とされている。イスラムにおいては、外の敵よりも内側の異端の方が罪深いと考えられているためである。
両派に向けられるスンニ派の敵愾心がシリアのアサド政権が長引く内戦でも崩壊しなかった一因(政権が崩壊すればアラウィー派が虐殺される恐れがあるため。)ともなっている。
余談
シーア派の祖となるイマーム(指導者)はムハンマドの娘婿で従弟・養子のアリーを祖とし、以後もムハンマドおよびアリーの直系子孫から出ていた。
ムハンマドを輩出した氏族であるハーシム家からは、上記初期シーア派イマームの家系の他、初期8世紀から13世紀にかけてイスラム圏に広がったイスラム帝国のアッバース朝、そして同じくムハンマドの直系子孫(上記イマームの家系とは始祖が兄弟同士で共にアリーの息子)である聖地メッカのシャリーフの一族が輩出された。
中世以後長らくイスラム圏を支配したオスマン帝国が倒れると、メッカ・ハーシム家の嫡流でシャリーフであったフサイン・イブン・アリーは同地を中心としたヒジャーズ王国を建国。更にフサイン国王の三人の息子がそれぞれヒジャーズ・ヨルダン・イラクの王家の祖となった。イラクにハーシム系の王室が立てられたのはアッバース朝以来となる。
しかし、ヒジャーズ王国は後に新たに勃興したワッハーブ派のサウード家によって滅ぼされる形となり(これにより新たにサウジアラビアが建国)、イラクではクーデターで王族が虐殺され共和化してしまった。
現在残るヨルダン王家は国王の懸命な外交政策や気さくな人柄もあり現在もハーシム家の支持が高いが、ヨルダン自体はスンニ派が多数を占めるという何とも皮肉な結果となっている。
主なシーア派の国
関連タグ
イラク…シーア派の発祥地
イラン…現在唯一のシーア派国家
サウジアラビア…スンナ派(というよりワッハーブ派)の総本山
エジプト…一般的にスンナ派の総本山とされるのはここだったりする
ルーホッラー・ホメイニー…イラン・イスラム革命の指導者。