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カリフ

かりふ

イスラム教の役職。イスラム教徒での『首位権』を持つ最高指導者。1922年に公式のタイトルは消滅。
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概要

カリフ(caliph)とはアラブ語ではハリーファ(Khalifa)と呼ぶイスラム社会指導者の英語表記。イスラム教スンニ派の首位権を持つ。イスラム法学者たちの定めた教義を信徒に護らせる仕事であり、宗教的政治的な指導者であった。またイスラム法学者はカリフの中央政府によって任命されることになっていた。なお、スンニ派とイスラム教を二分するシーア派ではカリフという地位は認められていない。


時にローマ教皇に例えられることもあるが、カリフには教義を決める権限はない。教義はコーランとムハンマドの言行によって元より決まっており変更はそもそもできない。しかしコーランと言行録に何でも書いてあるわけではないので、解釈によって決まる教義の部分はある。しかしこれも、イスラム法学者たちによる合意によってのみ決められた。カリフは主として政治的行政的な面で法学者たちの合意を実施する政治的な指導者である。宗教的な権限はモスクにおける金曜礼拝の実施の末尾にカリフの名において講話を読み上げたと結ばれることなど象徴的な役割に限定されていた。


称号

カリフとは、正式にはハリーファ・ラスール・アッラーフ(神の預言者ムハンマドの代理人)のことである。後に権威を高めてハリーファ・アッラーフ(神の代理人)とも称した。別名はアミール・アル=ムゥミニーン(信徒たちの長)。スンニ派ではイマーム(Imam)とも呼ぶ。もちろんシーア派のイマームのように教義を決める権限や無謬性などは付与されていない。



【歴史】

【正統カリフ時代】

 1500年前、(2015年から大体数えて)アラビア半島をローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を絶ち、イスラエルの神を信仰する新たな宗教イスラム教と、それを実践するイスラム軍により平定し統治者として君臨した開祖ムハンマドの没後、いとこにあたるアブー・バクルがイスラム教と『ムハンマド王国』の教義国家の執政者となったとき自らを『後継者(カリフ)』と名乗ったことに始まる。


以後、カリフはクライシュ族の有力な男性が継承したが、4代カリフ、『アリー』が権力闘争によりムワーウィア・ウマイヤ(ウマイア国初代シュ)の一派に殺害された。この後、イスラム教徒(ムスリム)の中に、ウマイヤが築いた権力とその後のイスラム教国を異端視する『シーア派(アリー党)(※3)』が誕生する。シーア派は4代アリーはムハンマドから直接後継者の地位を引き継いだとみなし、アリーの後継者を指導者として奉じる自身らが正統なイスラム教徒とする。


【歴代カリフ・イスラム国の時代】

 アリーを殺害したムワウィーアー・ウマイヤの一党が国家樹立をする(ウマイヤ朝)、その時ウワーウィーアーは自身の君主号として、全イスラム世界の統治者の後継としてカリフを用いる。


【絶頂期と凋落】

 カリフの権威が絶頂となったのはメソポタミア(イラク)地域にペルシア人やシーア派の協力を得てウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝(750-1258.都バグダッド)の時代であった。中央アジアから北アフリカにまで領土と信徒社会が広がる。イスラム美術・文化も征服したビザンツ帝国領エジプトやシリア、ペルシャ帝国などの異文化がイスラム教的に解釈しなおされて繁栄した。当時のヨーロッパよりも進んだ科学文明国でもあり、後ヨーロッパに科学技術・哲学などが輸入された。


だが、アッバース朝の広大な領土では、各地の武将が自立して王国をたて、カリフもそれを追認せざるを得なくなっていく。そしてチュニジアで決起したシーア派のファーティマ朝は910年にカリフを名乗り、チュニジアからエジプトまでを支配するようになる。ウマイヤ朝の残党がイベリア半島に立てた後ウマイヤ朝も929年にカリフを名乗ったので、乱立したカリフの権威はさらに低下していった。後ウマイヤ朝は1031年、ファーティマ朝は1171年に滅亡するが、バクダッドには繰り返し異民族が侵入し、アッバース朝の支配は首都周辺にしか及ばなくなっていた。


こうしてアッバース朝が長い歴史の中で衰退していくうちに、政治的帝王(スルタンマリクシャー)などが最高の権力者とされ、カリフはイスラム教世界(ウンマー)と信徒民(ムスリム)の象徴とされるようになった。アッバース朝カリフは1258年モンゴル帝国に首都民衆もろとも皆殺しにされて滅亡する。わずかな一族の生き残りはエジプトのマムルーク朝にカリフとして推戴されていたが、1517年に侵攻してきたオスマン帝国によって廃位された。


他にカリフを名乗った諸勢力もすでに滅びており、カリフが空位の時代が続くが、既にアッバース朝の衰退の頃から、イスラム教団はカリフなしで作動するように変わっていた。後に19世紀になってから、実はオスマン帝国のスルタンはアッバース朝からカリフ位を譲られていたという伝説が生じる。既に衰退していたオスマン帝国を復興させるため、スルタンたちは自らカリフを名乗るようになった。


【消滅】

1922年にオスマン帝国がトルコ革命(1923年)によって解体すると、スルタン兼カリフも同時退位した。旧統治領だったアラビア半島西部ヒジャーズ地方(現在のシリア)ではムハンマドの血統を引く名門ハーシム家のフサインがアミール(総督)としてオスマン帝国に認められていた。フサインは、イギリスの支援を得てヒジャーズ王となり、さらにオスマン帝国で空位となったカリフにも就任する。しかしスンニ派の多くの認識ではカリフの職務は既に終わったという認識が浸透していたので、支持は広がらなかった。むしろカリフを僭称したと決起を呼びかけたアラビア半島中部のサウド家に攻め滅ぼされ、ヒジャーズ王国は後のサウジアラビアに併合されてしまった。これ以後、カリフを名乗るイスラム王侯はいなくなった。


現在まで『カリフ復活運動』は一部の超保守派や過激派のみでしか主張されていない。アフガニスタンではタリバンの創設者オマル師がカリフの別名であるアミール・アル=ムゥミニーンを自称したが、正規のイスラム法学者としての教育を受けずに自称したのでイスラム諸国からは批判された。2014年にISISの指導者もカリフを自称したがこれも承認する国は現れなかった。

 

イラスト

アブデュルメジト1世


関連

暗黒サラセン帝国


参考文献

『wikipedia』

『ブルジュ・ハリファ』(ハリファのスペル)

『研究社 マイペディア辞典』

『広辞苑』

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