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概要編集

13世紀初頭にモンゴル高原で誕生した国家。

チンギス・カンとその眷属たちの活躍により、東は中国大陸から西は東ヨーロッパまで勢力を広げ、人類史上最大の勢力を誇った。


最盛期の人口は1億人を超えていたとみられ、これは当時の世界の人口の半分に当たる。


そのうちモンゴル人はごく少数で、テュルク漢人が大部分であった。他にもペルシャ人アラブ人朝鮮人スラブ人ゲルマン人など多様な民族・宗教・言語で構成されていた。

モンゴル人自身は五胡十六国時代に中華を席巻した鮮卑の分派である室韋の末裔と言われている。狭義のモンゴル人に同じモンゴル語を母語とするオイラトなどを合わせて、広義のモンゴル人となる。

当初の首都はモンゴル高原のハルホリン

クビライの時代、金朝の首都だった燕京に遷都し、名をカンバリクと改め、世界最大級の都市へと成長させる。国号を大元と定め、中国の文化様式やイスラム世界の高度な科学技術も継承し、ユーラシアの海上交易ルートも掌握するなど栄華を極めた。


しかし、クビライの即位により大帝国は分裂、王族たちの内紛も相次ぎ帝国は解体に向かうが、モンゴル皇帝は17世紀まで存続した。モンゴル帝国は、13世紀にクビライによって元として中国に確立され、広大な領土を有していた。


歴史編集

建国編集

9世紀にウイグルが崩壊して以来、モンゴル高原は統一政権が存在しない時代が続き、諸部族が群雄割拠する状況にあった。これを、1206年、モンゴル部族の長であるテムジンが統一し、全部族の君主に推戴されてチンギス・カンを名乗り、ここにモンゴル帝国が成立した。チンギス・カンは、北東アジアはもとより、中央アジアからイランまで領有していたホラムズ・シャー朝へ遠征し、その領土は更に拡大した。


チンギスは、早くからウイグル人などの書記を仕えさせると共に、ウイグル文字による文書行政を行わせた。


また、華北や天山などにはテュルク・モンゴル系の軍人たちの他、契丹・女真・漢人たちなどの征服民や部族民を動員し、屯田などの開拓を行わせた。


その他、チンギスは、自らに服従する領主階層を貴族と呼ばれる支配階層として再編した。最上級の貴族88人が千戸長という官職に任命され、千戸と呼ばれる集団を統括した。そして、千戸の下には百戸、さらにその下に十戸という風に、十進法に則った集団編成が続き、それぞれにも長として貴族が任命された。これらの集団は、戦時にそのまま軍団編成として機能し、チンギスの政治力と軍事力の源となった。



発展編集

1226年、チンギス・カンが崩御。長男ジョチはチンギスよりも先に没していたため、四男であるトゥルイが監国として国を治めた後、三男オゴデイが二代目の君主となった。いつの時期かは不明だが、オゴデイは即位後「カアン」という称号を用いるようになる。カアンは古代の遊牧政権の君主号「カガン」に由来するとされるが、オゴデイは、中小の部族連合体規模の君主号「カン」を凌ぐ、より上位の君主号としてこれを用いた。そのため、オゴデイは生前や死後しばらくは単に「カアン」とか「哈罕皇帝」とか呼ばれている。


オゴデイは、チンギス・カンの遠征で領土を大幅に減らしていた中国北部の金朝をついに滅亡させた。オゴデイはさらにそれに飽き足らず、三男クチュに南宋を攻撃させ、ジョチ家の当主バトゥと諸王家の皇子たちに東ヨーロッパへの遠征を命じるなど、1241年にこの世を去るまで帝国の版図を拡大し続けた。


特にバトゥの遠征では、ロシアの前身ルーシ諸国のほぼ全てが征服されてモンゴル帝国の領土となり、ハンガリーポーランドもモンゴル軍によって壊滅状態に陥った。


その後、オゴデイが没すると、東ヨーロッパ戦線で不和となっていたバトゥとグユクが皇位継承問題で対立し、一時的な空位が生じた。これに対し、グユクの生母でオゴデイの皇后筆頭ドレゲネが諸王家に説得工作を展開し、グユクが第三代皇帝として即位した。しかし、バトゥとグユクの対立はついに解消されることはなく、グユクが急逝すると、1251年にバトゥ率いるジョチ家と同盟関係にあったトゥルイの長男であるモンケが第四代皇帝に即位した。モンケはモンゴル帝国皇帝の称号として「カアン」号を復活させた。これ以降、モンゴル帝国の君主号にカアンを用いることが通例化していく。


モンケは、南宋に次弟クビライを派遣すると共に、チベット・高麗・中東へもそれぞれモンケの与党となった実弟たち及び王族たちを派遣、さらなる征服事業を進めた。中東に派遣した三弟フレグは、当時のイスラム教シーア派の最大派閥イスマーイール派ニザール派や、スンナ派の首班たるアッバース朝を滅ぼした。モンケは帝国内の引き締めに成功したが、その晩年は自らを補佐していた次弟クビライを更迭するなどの失策も目立ち、1259年に南宋遠征中に死去した。


分裂と再編編集

モンケの死後、クビライは1260年にカアンを名乗ったが、その末弟アリクブケもカアンを名乗ったことで、モンゴル帝国は内乱状態に陥った。1264年にクビライが勝利したものの、クビライの直接支配が及ぶ範囲はモンゴリアと中国北部に留まった。また、クビライ即位後にオゴデイ・ハン国のカイドゥが反乱を起こしたことなどから、モンゴル帝国は中央部で政治的に分断されるようになった。


クビライは反乱分子の鎮圧のために遠征軍を繰り出したが、その遠征軍もクビライから離反し、カイドゥやジョチ家と紛争を始めるなど勝手な動きを見せた。クビライは自らの皇子を遠征軍として派遣して再度鎮圧を図るも、これまた遠征軍に参加した王族らがモンケの息子シリギを首班として反乱を起こす等、遠征計画は立て続けに大失敗した。このような困難に遭いながらも、クビライはオゴデイ時代から続いた南宋遠征を完遂させて中華圏の南北を統一。支配地域の開発を進め、当時としては世界随一の経済大国を築き上げた。一方のフレグも、クビライとアリクブケの闘争を聞くと中東に留まり、イラン高原を中心にこの地域を自ら領有し、イルハン朝を建てた。


モンゴル帝国は、カイドゥとそれに続く中央アジアの紛争の影響で、モンゴル皇帝による領域全土の直接統治が不可能となり、チンギス・カンの子孫たちが治める複数の国家に分裂することとなった。その後、オゴデイ・ハン国を含めた各国は、クビライが中国に打ち立てた大元を宗主国として戴き、モンゴル帝国は緩やかな連合体に変質していった。


1301年にカイドゥが戦死すると、クビライの孫テムルが、ジョチ家・オゴデイ家・チャガタイ家・フレグ家の君主たちからモンゴル帝国皇帝として認められた。テムルによってこれらの地域の諸政権は事実上その既得権益を追認され、モンゴル帝国はつかのまの宥和を得た。


帝国崩壊とその後編集

14世紀に入ると、クビライ家では皇位継承を巡る宮廷内の内紛が続発した。14世紀半ばにはフレグ家も後継者が断絶して滅亡し、ジョチ家でも当主のバトゥの血筋が断絶、ジョチの末流の王族たちが当主たるカンを名乗って乱立するという混乱が続いた。チャガタイ及びオゴデイ家でも同様の事態が続く。そして、1368年、元朝は江南の反乱軍から興った明朝によって首都:大都を追われて中国本土を手放し、モンゴリアへと撤退していった。ここに、チンギス以来の大帝国は事実上消滅した。


15世紀にはチンギス・カンの多くの末裔が断絶・衰亡していった。しかし、一部ではその血筋が存続し、バトゥの末弟シバンやトカ・テムルの家系が、クリミア半島や中央アジアなどにおいて20世紀まで存続した。ウズベク・ハン国カザフ・ハン国など現代の同地域諸国の源流となっている国々がそれである。帝国の故地モンゴリアにおいても、15世紀にオイラト系のエセン・ハーンが強大化して土木の変で明朝を破る。エセンは短期で没落するが、クビライの末裔ダヤン・ハーンが諸部族の再編を行い、その孫アルタン・ハーンの代に再び明朝を脅かすにいたる。その頃、チベット仏教のモンゴル布教が成功し、仏僧達がアルタン支配の正統性を保証すると共に、アルタンは仏僧の長にダライ・ラマの尊称を奉じて権威を正当化した。この頃からモンゴル民族の主要宗教としてチベット仏教の地位が確立する。後にモンゴルの主導権はオイラト系のジュンガル帝国に移り、17世紀後半にジュンガルはモンゴル高原からタリム盆地を経てカザフ草原に至る領域を制圧した。18世紀には清朝が強大化しジュンガル帝国は滅亡するが、モンゴル諸族の子孫たちは多くが清朝に臣従し地方領主階層として存続していった。


だが清朝崩壊に伴い、モンゴルにも近代社会に対応できる近代国家が必要とされるようになる。以後のモンゴル近現代史は、モンゴル記事の歴史節を参照。


国名主な領土範囲
大元(ダイオン・ウルス)モンゴリア、中国北部
オゴタイ・ハン国ジュンガリア地方
チャガタイ・ハン国カシュガル地方、サマルカンド一帯
キプチャク・ハン国東ヨーロッパ、ロシア西部
イル・ハン国中東一帯


関連タグ編集

モンゴル

チンギス・ハーン テムジン

駅伝

元寇

東洋史

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