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ホラズム

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ほらずむ

中世に存在した中央アジアのイスラム王朝(1077年~1231年)。 ホラズム・シャー朝とも呼称する。

概要

1077年にセルジューク・トルコ朝の軍人であったアヌーシュ・テギーンが中央アジアのホラズム地方の総督になった事を源流とする。

当初はセルジューク・トルコ朝に従属する形であったが12世紀前半アヌーシュ・テギーンの孫であるアトスズの代に自立の傾向を見せてセルジューク・トルコ朝や東の西遼に対し従属と独立を繰り返しつつ争い勢力を次第に拡大した。

第7代アラーウッディーン・ムハンマドの代に全盛期を迎えて現在のウズベキスタン・トルクメニスタン・イラン全域とを勢力下においた。

しかし、1216年にホラズムの地方総督がモンゴルの隊商を殺害した事件をきっかけとして1219年にチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の侵攻を受け、国内の各都市はモンゴル軍に攻略された上に徹底的に破壊されムハンマドはカスピ海の小島に逃れた末に1220年に病死した。

一説には、チンギス・ハーンより「日出る国の統治者である私は、日没する国の統治者である貴方にご挨拶を申し上げる。両国の間で平和と友好の誓いを結ぼうではないか」という5〜600年ほど前にどこかで聞いたような国書が届いたので、その内容に怒った皇帝アラーウッディーン・ムハンマドは、この無礼な蛮族どもに対しわからせを決行したら……数年後には侮っていた蛮族どもに逆に国を滅ぼされていたとも言われる。

早い話が、モンゴルとトラブって、わずか数年で、当時のイスラム圏最強(もしくはユーラシア最強)の国の1つが事実上消え去った訳である。この国が弱かったのではない。モンゴルが無茶苦茶過ぎただけなのだ。

ちなみに、当時のロシアおよびその近辺に有った諸国がモンゴルに征服された理由は、概ね、この国を滅ぼしたついでである。

以後は王子のジャラールッディーンが残党を率いて各地でモンゴル帝国に抵抗したが1231年に殺害された事でホラズムは滅亡した。

歴代君主

1 アヌーシュ・テギーン(在位1077年~1097年)

2 クトゥブッディーン・ムハンマド(在位1097年~1127年)

3 アトスズ(在位1097年~1156年)

4 イル・アルスラン(在位1156年~1172年)

5 ジャラールッディーン・スルターン・シャー(在位1172年~1193年)

6 アラーウッディーン・テキシュ(在位1172年~1200年)

7 アラーウッディーン・ムハンマド(在位1200年~1220年)

8 ジャラールッディーン・メングベルディー(在位1220年~1231年)

※ジャラールッディーン・スルターン・シャー(弟)とアラーウッディーン・テキシュ(兄)の時代はスルタン位を巡り分裂状態にあった。

関連人物

・テルケン・ハトン(?~1233年)

第6代君主テキシュの后で第7代君主ムハンマドの生母。

国内北方の遊牧民族でホラズムの軍事力の主力であった遊牧民カンクリ族の出身で宮廷に大きな影響力を持った。

・イナルチュク(?~1219年)

別名ガイル・ハーン。テルケン・ハトンの親戚でオトラル市の総督でモンゴルの隊商を虐殺する行動(オトラル事件)を起こしてモンゴル帝国の侵攻を招いた。後にモンゴル軍に捕らえられて処刑される。

・ナースィル・ウッディーン(?~1220年)

第7代君主ムハンマドの時代の宰相。

奴隷身分からムハンマドの生母テルケン・ハトンに引き立てられて宰相となり権勢を振るった。

ムハンマドは汚職を繰り返すナースィルを嫌っていたがオトラル事件を起こしたイナルチュクと同様に母の後ろ盾を得たナースィルを処罰できなかった。後にモンゴル軍によって殺害される。

チムール・メリク(?~1231年)

モンゴル帝国のホラズム侵攻の際に寡兵でモンゴルの大軍に善戦したホジェンド市の守将。

・ルクン・ウッディーン・グールシャンチー(?~1220年)

第7代君主ムハンマドの長男。モンゴル軍に帝国したが殺害された。

・ウズラグ・シャー(?~1220年)

第7代君主ムハンマドの末子。

生母は祖母のテルケンと同じ部族であった為、末子ながらも後継者に定められていたがモンゴル軍の侵攻によって結局は武勇に秀でた兄のジャラールッディーンが継ぐ事になる。後にモンゴル軍との戦いで戦死した。

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