概要
アラーウッディーン・ムハンマド(علاءالدين محمد : ‘Alā’ al-Dīn Muhammad, 生年不詳 - 1220年)は、ホラズム朝(ホラズム帝国)の第7代スルタン(在位:1200年 - 1220年)。
ホラズム朝の最盛期を築いた。
ただし、若干の問題はホラズム朝の最盛期を築いた皇帝が、同じ王朝の最後の事実上の皇帝だった事である。
なぜ、そんな事になったかと言えばチンギス・ハーンを「無礼な蛮族」と侮ってわからせを決行したら、逆に国ごと滅ぼされた為。
領土拡大の始まり
アラーウッディーンは即位直後にホラーサーンに侵入したゴール朝を、宗主国の西遼(カラ・キタイ)の援軍と共に撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。
しかし、当時、西遼に臣従していたホラズム朝であったが、イスラム教国であるホラズムは、異教の仏教国である西遼への朝貢を不満に思っており、かねてより臣従下から抜け出す機会を覗っていた。
折しも、西遼の宗主権下で辛うじて存続していた隣国の西カラハン朝は同様の不満を抱えており、ホラズム朝への臣従と引き換えにアラーウッディーンに西遼への反攻を要請し、1208年(1209年)に西遼を攻撃した。
当初、アラーウッディーンは西遼に敗れて捕虜となり、国内には彼が戦死した噂まで流れるが、彼は従者の機転によって奴隷と身分を偽り帰国に成功した。そして、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟して西遼を破った。
さらに、同1210年(もしくは1212年)、西カラハン朝は結局、ホラズムの支配にも耐えかねて臣従を撤回し、再び西遼に臣従し、首都サマルカンド内のホラズム人を虐殺する事件を起したため、アラーウッディーンはサマルカンドを陥落させて西カラハン朝を滅ぼし、ホラズムの首都をサマルカンドに移した。
ゴール朝を併合
この頃、アラーウッディーンがかつて西遼に敗れて捕虜となった際、不穏な動きを見せて不和となっていた兄アリー・シャーがゴール朝に亡命する事件が起こる。
ゴール朝は、全盛期を築いたシハーブッディーン・ムハンマドが1206年に死んで以後、総督たちの自立によって早くも弱体化していた。
当時のゴール朝のスルタン・ギヤースッディーン・マフムードが支配権を及ぼしていたのはゴール地方のみであり、ホラズム朝に貢納を行っている状況であった。
西暦1212年、当のギヤースッディーン・マフムードが宮廷内で刺殺される事件が起き、当時の人々はアラーウッディーンの関与を噂し合った。
ギヤースッディーン・マフムードの死後、ゴール朝では後継者争いが起こり、この機に乗じて兄アリー・シャーがゴール朝の後継者を自称するが、アラーウッディーンは刺客を放って彼を暗殺し、1215年にはゴール朝最後のスルタン・アラー・ウッディーン・ムハンマド4世を廃してゴール朝の領土を併合した。
アッバース朝への圧迫・最盛期
1215年、ガズナに独立勢力を築いていた元ゴール朝の総督タージ・ウッディーン・ユルドゥズに勝利しガズナを占領した際、同地でアッバース朝のカリフ・ナースィルがゴール朝のスルタンらに宛てて書いた書簡が発見された。
書簡にはホラズム朝の動向に注意を払い、ホラズムへの攻撃を扇動する文言があった。即位直後のゴール朝の侵攻もナースィルによる同様の扇動によるものであったと考えられている。このため、アラーウッディーンはアッバース朝に強い敵意を抱いた。
同年、アラーウッディーンは、アッバース朝に対して、公式のスルタンの称号の授与、バグダッドへの代官の設置を要求するなど、セルジュク朝のスルタン達と同じ特権を得ようとした。だが、要求が拒絶されたため、アラーウッディーンはウラマー達の同意を得て、アリーの後裔をカリフに擁立して同様の権威を自ら創出することを図った。
その後、アッバース朝の要請を受けてイラン西部に進軍したシーラーズを統治するサルガル朝、タブリーズを統治するイル・ドュグュズ朝(イルデギズ朝)の二つの勢力を破り、両国を臣従国とした。
ヒジュラ暦606年(西暦1217年~1218年に当たる)、イラン西部を支配下に置いたアラーウッディーンはハマダーンを拠点とし、アッバース朝から派遣された使者の和平の提案も受け容れず、アッバース朝の攻略を狙う構えを見せた。
しかし、アサダーバードで厳寒と降雪に見舞われると共に、現地のトルコ人とクルド人の攻撃を受けてアラーウッディーンのアッバース朝攻略の計画は頓挫し、東方のモンゴル帝国からの使節に応対するため、息子のルクヌッディーンに同地の統治を委せ、アラーウッディーンは帰国した。
モンゴル帝国の侵攻
1215年のガズナの攻略と前後して、アラーウッディーンは、金朝の中都(後の元朝の大都、現在の北京)を攻略してそこに滞在していたチンギス・ハーンに使節団を派遣し、チンギス・ハーンから友好関係の構築と通商の開始が提案された。
1218年の春、アラーウッディーンはブハラで、ホラズム出身者からなるモンゴルの使節団と謁見するが、使節団が示した要件は、修好と通商の開始のみならず、モンゴル帝国への臣従だった。
彼は臣従の要求に激怒するが、使節の一人からモンゴルの兵力が、ホラズムに比べて微弱なものであると聞かされて気を鎮め、好意的な返答を与えて使節団を送り返した。
同年、オトラルの総督イナルチュクから、モンゴル帝国が派遣した通商使節団をスパイの容疑で逮捕したとの報告を受けると、アラーウッディーンは使節団の処刑を命じ、使節団は処刑された。
モンゴルからイナルチュクの処罰を求める使者が送られるが、母の親族であり軍内において相当の権限を有していたイナルチュクを処罰することは彼にはできなかった。
このため、1219年にホラズム・シャー朝はモンゴル軍の大規模な侵攻を受けた。
没落
アラーウッディーンは当初はサマルカンドにいたが、1220年4月にサマルカンドを放棄し、逃走路の住民達に、自軍は民衆を守れないので各々で方策を考えるよう伝えた。
臣下は、徹底抗戦すべきとの意見、ガズナに逃れるとの意見、イラクに逃れるとの意見に三分されたが、アラーウッディーンは徹底抗戦を唱える王子ジャラールッディーンを抑えてイラクへの退却を決定した。ニシャプール(現イランのネイシャーブール)、カズウィーンを経て、わずかな従者を従えてマーザンダラーンに逃れた。
だが、モンゴル軍はすでにマーザンダラーンにも侵入しており、現地の貴族の勧めに従って、モンゴル軍の追撃を振り切ってカスピ海の小島アバスクン島に逃れた。アバスクン島に逃れる時、アラーウッディーンは肺を病んでおり、逃亡中にかつては大国の王であった自分が、廟を立てるほどの土地すら有していない現状を嘆いた。
死去
日毎にアラーウッディーンの病は悪化し、彼は王子のジャラールッディーン、ウズラグ・シャー、アーク・シャーを呼び寄せた。
ウズラグ・シャーを後継者とする指名を取り消してジャラールッディーンを後継者に選び、ホラズム朝の再興を託した。
指名から2,3日後、1220年12月、アラーウッディーンは没した。アラーウッディーンは島内に埋葬されたが、遺体を包む経帷子すら欠いており、やむなく彼の遺体は衣服に包まれた。
ホラズム朝の滅亡
息子のジャラールッディーンはその遺志を堅持してモンゴルの撃退とホラズムの再興を試みて周辺国の協力を求めたがほとんど甲斐無く、アフガニスタン、インド、イラン、イラク、アゼルバイジャンと各地を転戦し、アゼルバイジャンを拠点に一時はイラクに勢力を広げるものの、
1231年、チンギスの後を継いだオゴデイ・ハーンは討伐隊を派遣し、モンゴル軍の到来を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラールッディーンに反旗を翻した。
この状況のため、ジャラールッディーンは東部アナトリアのアーミド(現在のディヤルバクル)近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地のクルド人によって殺害され、ジャラールッディーンの死により、ホラズム朝は名実共に滅びた。
この間、ジャラールッディーンは、1229年にアフラート(ヒラート)包囲を行った際、エスファハーンにアラーウッディーンの廟を建てることを計画し、アラーウッディーンの遺体はアバスクン島からダマーヴァンド山上の城砦に移された。しかし、廟が完成する前にジャラールッディーンは落命し、城砦に置かれたアラーウッディーンの遺体はモンゴルのオゴデイの元に送られて焼かれた。
死後の評価
ホラズム朝の最盛期を築いて最大版図を達成しながら、モンゴル軍の侵入によって呆気なく瓦解し、実質的には彼の代でホラズム朝が滅亡したところから、評価は分かれるところである。
また、モンゴル帝国の征服活動の巨大さの陰に隠れて、影の薄い存在となりがちである。
イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーとラシードゥッディーンはいずれもアラーウッディーンを優柔不断、臆病な人物として描写した。
彼らによれば、アラーウッディーンは逃亡中にニシャプールに3週間立ち寄った時、再起を図るどころか職務を怠って宴曲に没頭したという。
しかし、歴史学者のワシーリィ・バルトリドは彼らの説に対して、アラーウッディーンがニシャプールに3週間滞在したとは考えにくいと疑問を呈した。
他方、同時代の歴史家であるイブン・アスィールは、彼の人格と知識を称賛した。
アラーウッディーン・ムハンマドが登場する作品
小説・伝記など
- 井上靖氏の蒼き狼:ムハメットと呼ばれ、臆病者扱いされる。実母や親族を捕虜にされ、彼自身も憤死した。
- 博文館の偉人伝叢書「成吉思汗」: 大正期に出版された本なのでムハメツトと旧仮名遣いで記される。雄略に長けた皇帝として書かれるが、チンギスにとっても噛ませ犬扱いにされる。
- 白石典之氏の「チンギス・カン」。ホラズムを大国にのし上げた英主と評価し、モンゴル側の策略(オトラル事件はチンギス側の陰謀説にも着目)に敗れ去ったことも如実に描く。
- 堺屋太一氏の「チンギス・ハン」。イブン・アスィールの記述通りに名君として登場し、チンギス軍に敗れて悲劇的な最期を迎える。彼を苦しめた原因であるイナルチュクと母テルケンは史実以上に苛烈な報復を受ける設定であり、些かだが救いを持って描かれる。
歴史ゲー
- 蒼き狼と白き雌鹿:「ジンギスカン」で初登場。ホラズムの君主として君臨し、高レベルの能力を持つ強敵。国力・本土の防衛力も強いため倒すには相当な兵力が割かれる。続編の「元朝秘史」や「チンギスハーン」でも登場する。
- 元朝秘史:プレイヤー化し、ペルシアを治めるパワー型でそこそこ使える武将だが「捕虜になるとは…とほほ」「御慈悲に感謝しますぞ」など情けないキャラで描かれる。(史実の姿を見れば命乞いするような軟弱者ではないのだが、PC版ガイドブックでは臆病者とか、后のタルーブ姫とは不釣合いと書かれるなど散々な扱い)。
一方、後発の攻略本ではサラディンと政治について討論(スーファミ版)したり、ムハちゃんと言うあだ名でチンギスとナンパ対談(PS版)するなど決して扱いは悪くない。