概要
1271年にクビライがモンゴル帝国を再編して建国した王朝「大元イエケ・モンゴル・ウルス(大元大モンゴル国)」の中国王朝としての呼称。モンゴル帝国の中国大陸+モンゴル高原部分。首都は大都(現在の北京)。また夏の都として上都が置かれた。
建国
クビライ(世祖)が弟のアリクブケと皇位を争う中で、1264年にそれまでのカラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風に大元と称した。1279年南宋を滅ぼし、中国全土を支配した。
この過程で中央アジアのオゴデイ家やジョチ家の政権が離反し、従来のモンゴル帝国は解体して大元を中核とした緩やかな国家連合に変質していく。
行政
大元は支配層のモンゴル人、多数派の漢民族以外にも多くの民族を包括した多民族国家であった。
かつては身分制を敷き、漢人(旧金朝の人民)、南人(旧南宋人)を差別したとされていた(モンゴル第一主義)が、実際にはどんな人々も分け隔てなく、才能あれば登用したとされる。なお、科挙はこの時代は廃止されていた。
行政は従来の中国王朝式の制度が採用された。地方統治には行中書省が行ったが、これが現在に繋がる省制度のもととなる。
文化
それまでの中国文化は途切れず、漢詩や書画などの制作は宋代に引き続き盛んだった。中でも雑劇と呼ばれる戯曲の評価は高く「元曲」と称される。『西遊記』、『水滸伝』や『三国志演義』などはこの時代に原型が出来たとされる。宋代の高い技術を受け継いだ陶磁器は世界各地に輸出された。
皇帝は多宗教を擁護した。皇室が崇拝していたチベット仏教のみならず、禅宗やイスラム教、ネストリウス派のキリスト教も庇護を受け、その寺院が多く作られた。しかし、やがて王族や貴族の間でチベット仏教が影響力を拡大し、皇帝がラマに過大な特権を与えたり宗教儀礼のために過大な出費を行ったことが帝国滅亡の一因となった。
滅亡への道
フビライは元建国後も、引き続き中国大陸の完全掌握に向け、南宋の攻略を進め、1276年に制圧する。前後して日本や陳(ベトナム)、さらにはジャワなどへ遠征を行うも、上手くいかなかった。
フビライの死後もしばらく安定していたが、徐々に崩壊への兆しが現れる。モンゴル人支配層はチベット仏教を崇拝し、その寺院を多く建てた。だが、それにより財政難に陥る。足りなくなった金を補うため、交鈔(元が発行していた紙幣)を乱発、結果インフレ状態となり物価は高騰。予てより黄河の治水など、重労働に駆り出され、不満が募っていた漢人の怒りは爆発。1351年、白蓮教徒による反乱が勃発、いわゆる紅巾の乱である。これにより群雄割拠状態となり、滅亡へ突き進んでいく。
その中で頭角を表したのが朱元璋であった。彼は次々にライバルを倒し、1368年南京で即位、南宋以来の漢人王朝「大明」の建国を宣言する。そして、朱元璋はその勢いを駆るように大都に残った元に襲いかかる。
なす術もなくなった元朝は、1370年大都を捨て上都へ落ち延びた。
これを以て元は滅亡したものと見なされ、以後は「北元」と呼ばれる。しばらくはフビライに連なる一族がハーンを名乗ったが、やがて途絶え血の繋がらない者がハーンの位に就く。
そして、1634年に大元ハーンの玉璽を後金皇帝のホンタイジに譲ったことで、完全に滅亡することになる。