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ホンタイジ

ほんたいじ

清朝第二代皇帝 ヌルハチの後継者として満州国家を統率、その後中華帝国として〈大清〉に国号を変える。(1592 - 1643〈51〉)
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概説編集

Hongtaiji

(ほんたいじ・ホンタイジー)

生没:1592年 - 1643年〈51歳〉

在位:1626年 - 1643年〈17年〉


清朝第二代皇帝。廟号は太宗。当て字は諸説あるが〈極太子〉と訳されることが多い。後金国(アイチン)の建国者ヌルハチの八男で、幼少期からヌルハチの大業に参加し、八旗軍の団長として活躍した。しかし謀略家的一面もあり、八男でありながらヌルハチの満州国家の後継者として〈汗(ハーン)〉となれたのは。彼が先生まれの兄弟を謀略にはめながら抹殺したとも言われている。

二代金国汗編集

ともあれ1626年に金国元首〈汗(ハーン)〉に即位。翌年の1627年は八旗軍を朝鮮全土に派兵、朝鮮王朝を蹂躙し朝貢化した。その後八旗軍をモンゴル〈ボルギジン・モンゴル帝国〉に侵略、モンゴル軍を蹴散らした、その後ボルギジン・モンゴル皇帝が金軍(八旗軍)に講和をもちかける。後金(清)国側は講和の条件に元朝以来の玉璽を手に入れる。

中華帝国へ編集

1631年にモンゴルからの玉璽を手に入れたホンタイジは、このままモンゴル・中央アジアロシアなどに大攻勢をかけて〈かつてのモンゴル帝国〉のような〈遊牧世界国家〉を築くか〈全中華の帝国〉になるかの決断を迫られ、ホンタイジは皇帝になることを決意した。1635年に心機一転の証としてそれまでの女真国家としての〈後金(アイチン〉)から〈大清(ダーチン)〉へと国号と元号を変えた。

惜死編集

 1643年に北京の明帝国政府は、李自成の軍団により攻められ滅ぼさせる、これにより明帝国は滅亡した。 李自成は紫禁城で大順国皇帝に即位した。その直後ホンタイジ率いる清軍八旗も北京へ到着し、李自成が居座る紫禁城への攻略戦を開始した。清軍が優位に進み跡一歩でホンタイジが紫禁城入城というところで、突然崩御した。享年51。


紫禁城入城は息子(順治帝)が入った。

その他編集

  • ヌルハチ・順治帝もそうだが、当時の肖像画が正確に残っていないようで、紫禁城時代に書かれた肖像画が有名。なので服装や顔などが、本当は不明確である。

家族編集

  • ホーゲ:ホンタイジ長男。張献忠を倒すなど戦果を挙げるものの、ドルゴンとの政権争いに敗れ獄死。
  • 順治帝フリンとも。のちにホーゲを殺したドルゴンへの復讐を、ドルゴン死後に果たす。
  • ドルゴン:ヌルハチ14子。ホンタイジ死後に順治帝摂政となり、政権独占。

創作では編集

関連タグ編集

愛新覚羅 清朝

満州


ヌルハチ(初代皇帝)←ホンタイジ(二代皇帝)順治帝(三代皇帝)

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