概要
前漢において民間の詩を収集する役所として楽府が設置され、やがて後漢末から三国時代にかけて曹操とその一門らにより国家的文学としての漢詩が確立されたとされる。
唐の時代には李白、杜甫、王維、白居易(白楽天)らが活躍し、漢詩の全盛期を迎える。この時期の漢詩を特に唐詩とも呼ぶ。
その後も現代に至るまで中国及び周辺の漢字文化圏において漢詩は詠まれ続けている。
日本においても古代より親しまれている文学の一つである。
基本形
五言と七言、絶句と律詩
まず文字数が決まっており、一行に五字で表す『五言詩』と七字で表す『七言詩』に分けられる。
そしてそこを踏まえて、四行で表す短い『絶句』と八行と倍近い長さで表す『律詩』に分けられる。
これらを合わせ、【五言絶句・五言律詩】と【七言絶句・七言律詩】という基本形が出来上がる。
無論、この基本形を元に崩した大型の漢詩文も存在する。
日本の漢詩
常識的には漢詩は中国詩と考えられているが、事実として日本の古典文学は仮名で書かれた和文学ばかりではなく、飛鳥・奈良以来1300年以上、漢詩・漢文が絶えず作られてきた。
ただ、日本の漢詩は平仄が合っていても中国語で読んだ時の音の響きまで考えていないことがあり、特に漢学の教養が深い作者によるものを除いて、中国ではあまり高い評価は与えられていない。
中国語の発音は時代と共に大きく変わって来たし、唐代や宋代の発音で読むものを作ることも不可能であるため、日本では唐詩の観賞は音色の美しさより、書かれた詩の意味に重点が置かれることになる。
古代
日本における漢詩の製作は、天智天皇の時代から本格的に始まったとされる。
しかし、その後に起こった壬申の乱によって、この時代に作られた詩はほとんど失われてしまったようで、奈良時代までの作品として現在伝わるものはそれほど多くない。奈良時代までの漢詩を集めた詩集として『懐風藻』があるが、古代における詩文の歴史を記述しているのも、やはりこの集の序文である。
平安時代に入ると、一挙に漢詩の製作が盛んになり、間もなく漢詩の隆盛期が出現する。平安遷都からわずか20年後に『凌雲集』という漢詩集が編纂され、さらに第二の『文華秀麗集』、第三の『経国集』と漢詩集が次々に作られた。これら三つの漢詩集は勅撰集であり、和歌の勅撰集『古今和歌集』よりも早く、文学として価値あるものとして社会的にまず公認されたのは漢詩だったのである。
日本の漢詩は中国詩の学習、受容から出発したが、時代の流れのなかで、次第に中国詩の模倣から脱却して、自己の感情を表現する一つの文学形式として成熟させていったのである。
中世
室町時代の武将たちは、自らの勝利や人生の悲哀を漢詩に託した。
近世
江戸時代に入ると、漢詩は「狂詩」となり人々を笑いの渦に巻き込むものとなる。
この時期は日本漢詩の頂点といわれ、頼山陽の詩はその中でも特に名高い。
良寛のように「私には好まないものが三つある。詩人の詩と書家の書と料理人の料理」と豪語して、独特の漢詩を中国人も称賛する書で書いた人も登場した。
近代
明治時代までは、漢詩を作ることは、文化人としての教養であった。
日本文学は漢文の伝統から切り離されたが、夏目漱石のような漢学の素養のある文人は漢詩をたしなんだ。
また明治時代のジャーナリスト成島柳北などは、欧米視察の時にメッカのアラファト山を読んだ漢詩を残し、日露戦争の英雄乃木希典将軍は、戦地でも漢詩を詠んでいる。
日清戦争・日露戦争を経て大正の世となるが、その前後の時期、質・量ともに圧倒的な漢詩を制作されたのが大正の帝であった。
現代
東亜大戦後、日本では漢字廃止論、国語ローマ字化論、さらには国語をフランス語にするなどの暴論が生じたが、今日それらはすべて消え去った。
欧米文化への崇拝が加速される一方、とりわけ近年ではその限界もさまざまに自覚されているが、そうした激動の波に洗われつつも、漢詩を楽しみ、制作・観賞する人々は絶えることなく、いまなお漢詩は学校の教科書に多く掲載されている。
昭和時代後半、日中国交回復の際、内閣総理大臣の田中角栄は毛沢東に漢詩を送った。
関連イラスト
漢詩人を描いたイラスト、漢詩で詠まれた世界を描いたイラスト等にタグとして付与されている。