概要
現在で言うところの司馬遼太郎のような人物である。
源平時代から徳川時代までの歴史を記した『日本外史』は幕末のベストセラーとなった。
ちなみに「外史」とは、公的なものでなく個人で書いた「歴史書」のことを指す。
幕末の志士のバイブルとなり、幕末期における歴史観に大きな影響を与えた。
名セリフ・名文など
- 鞭声 粛粛 夜 河を渡る:漢詩『川中島』の一節
- 敵に塩を送る:頼山陽が上杉謙信贔屓で美化したとされる。
- 敵は本能寺に在り:『本能寺』の一節
- 独眼竜:伊達政宗を独眼竜と呼ばれた唐の李克用(り こくよう)になぞらえた頼山陽の漢詩が初登場。
など
人物
大阪に生まれる。
はじめ叔父の頼杏坪に学び、18歳の時、江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。
21歳の時、出奔してとがめられ、自宅に三年間監禁された。
その後、備後で菅茶山に師事し、その塾の塾頭となった。
京都に書斎・山紫水明処を営み、門生に教え、文人と交わった。
36歳の時、江馬細香と出会い、終生、師弟としての交流を持つ。
48歳で『日本外史』を、老中松平定信に献上。
ほどなくして出版されると好評を博し、幕末の尊皇攘夷運動にも影響を与えた。
他に『日本政記』『日本楽府』や自選の詩集『山陽詩鈔』などがある。
頼山陽は修史(歴史の編修)をライフワークとしていただけに、漢詩も「不識庵 機山を撃つの図に題す」―文化9年(西暦1812年)、作者33歳の時、川中島の合戦の様子を描いた画に記した、「鞭声 粛粛 夜 河を渡る……」に始まる作品で、歴史を詠じた詩のなかの傑作と称せられ、詩吟や剣舞でも馴染み深い名作―のような詠史詩が名作として知られるが、「天草洋に泊す」(山陽の詩の中でもひときわ人口に膾炙した作品で、「雲か山か 呉か越か……」に始まる)や「阿嵎嶺」のような壮大な景観を描き出した作品、母や愛人たちに示した情の深い作品にも優れたものが多い。
平易かつ壮大な詩を詠んだ頼山陽は、漢詩文の中で日本風の味わいを表現した代表的な存在と言えよう。