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概要編集

江戸後期の陽明学者。大坂東町奉行与力、同吟味役を務め、在職中には数々の功績をあげ、世に廉直の評が高かった。辞職後は家塾洗心洞を開く。

1836年天保の飢饉に奉行所に難民救済を直訴してかなわず、1837年2月同志を募って挙兵、打ち壊しを行ったが鎮圧され自刃。


愛称は「お相撲さん」。


性格は実直にして自他共に大変厳しい人物であり、門弟からも畏怖されていた。どれくらい恐れられていたのかというと、ある門人は講義の際に怖くて大塩の顔を見ることが出来なかったという。

飢饉の際には私財をなげうって貧しい人々に施しをしてまわった仁義の人であったが、それ故に庶民の窮状を顧みないお上のやり口に怒りを覚えていたのである。そして、奉行所にも数々の救民策を具申するも大阪奉行には退けられ、豪商には窮民の為に自身と門人の禄米を担保に金を借りようともしたが断られてしまっている。もはや大塩は奉行らを討ち、豪商に痛撃を与える事でしか救民は成し得ないと考えて武装蜂起を画策する。


しかし、彼の挙兵は門人達からは必ずしも支持されたものではなかった。最初に主要門人達に挙兵計画を打ち明けた際には驚愕した門人らは思い留まるように必死の逆説得を行うが、大塩は黙殺。更に計画自体も大坂の町、役人達の住居街である天満への焼き討ちを予定していたため、身内や知人に害が及ぶ事を危惧した多くの門人は大塩と距離を取り始めてしまう。

そして決行直前に町目付の平山助次郎が奉行所に計画を密告。ただし、この時点では奉行も「幕臣の叛乱」が信じられず、大塩門弟や親しい与力・同心から事情聴取に留めており、「何かの間違いで真意を確かめたい」「事実なら説得をする」という意見を入れ、ひとまずは保留となる。

しかし、決行日当日に複数の参加予定者が離反。奉行所に大塩の檄文を持って挙兵計画を知らせに来たため、大塩叛乱の事実は決定的になり、奉行所は即座に行動を開始。大塩も奉行所の同士が事態を知らせたため、計画を前倒しにして武装蜂起したが、あえなく鎮圧の憂き目に遭った。

大塩親子は当初捕縛を逃れたが、潜伏先を密告により幕府に見つかったため自殺。大塩は江戸の徳川斉昭へ書面を送っていたが、こちらは江戸に着いた後に幕府の命令で大阪に返送される事になってしまう。しかも運搬の飛脚は中身をすくねようした挙句、金品が無いと知ると書面を箱根の山中に捨ててしまったため、幕府にその声が届くことはなかった。ちなみに大塩の書面は地元民に発見され、地元の代官に届けられた。幕府の重要物と判断した代官により複写の上で江戸に再度送られたため、書面の完全紛失は避けられ、今日でも内容は残されている。

しかし、彼が引き起こした『大塩平八郎の乱』は意外な形で継承されることとなる。

幕府に仕えた役人が庶民の生活のために幕府に堂々と反旗を翻したという事実は世間に大変な衝撃を与え、大塩平八郎の名は人々の間に知れ渡り、後に彼の弟子を名乗る人物達が日本全国で次々と世直し一揆を起こすようになったのである。例えば、越後柏崎で儒学者・生田万(いくたよろず)が大塩の門弟を名乗り、幕府に対して世直し一揆を起こしている。


この事件は幕府の権威を大いに揺らがせることになり、大塩平八郎のフォロワーたちによる一揆は長く幕府を悩ませることになる。ある意味で、後の倒幕運動の先駆けとなった人物とも言えるかもしれない。歴史家のなかには、『大塩平八郎の乱』から幕末が始まったと唱える人もおり、事実大塩の乱以降、幕府の権威は幕末期に到るまで失墜し続けており、「徳川幕府は絶対的な支配者」という世間一般のイメージ像を崩すことには成功したとも言える。


また、幕臣の反乱により幕府も現状に危機感を持つようになり、第11代将軍徳川家斉が死去し、第12代将軍徳川家慶の時代に入ると老中水野忠邦による天保の改革が行われる一因になったとも言われる。

しかし、天保の改革は過度な倹約令や現実離れした内容だったために、わずか2年で総撤回に至る。成果面でもマイナスの結果にしかならず、幕府の命脈を縮める結果となっている。


彼が残した書物はその多くが禁書扱いとなったが、吉田松陰西郷隆盛も大塩の著作を所持しており、彼等幕末の中心人物達にも少なからず影響を与えていたと見られている。


逸話、余談編集

  • 自他共に大変厳しい人物で、非常に短気で怒りっぽかったとされる。上司の酒席に呼ばれた際も虫の居所が悪かったのか、幕府に対する怒りが募り非常に堅いことで知られる魚カナガシラのお頭を噛み砕いてしまったとか。他にも知人の頼山陽からは博識を称賛されているが、同時に「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ」と忠告も受けている。現代風にすると「常時抜刀しているかの如く態度は良くない。たまには刀を仕舞い態度を和らげなさい」となる。実際に常にピリピリと神経を張り詰めた生活を送っており、10日あまりもまともに眠れない日々を送ったという逸話も残る。

  • 「もし友になりたいと思った相手に、邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉が残されており、大塩の厳格かつ生真面目な性格を表している。

  • 蝦夷地探検で知られる近藤重蔵が大坂に左遷させられた際に親交を結んでいたが、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を持ったという。

  • 大塩平八郎の乱の影響により大坂町奉行を務めた跡部良弼は庶民の苦しみを顧みない悪奉行としてのイメージが定着しているが、実際にはかなり積極的な米価引き下げ対策を次々に実行し、飢饉発生時には官米払い下げや飯米維持政策を実施している。江戸への米回送こそ続けていたが、これは江戸も米不足に陥っていたという事情にあり、大阪側の事情が逼迫した際には大量流出を防ぐ政策を実施。実際にはしっかりと米価対策を行っていたが、大塩の英雄視と共に評価が貶められた。また、飢饉で餓死者が出たのも事実であり、大塩提案の救民策も却下していたため、大塩が憤ったのも無理のない事だった。しかし、奉行所の対策は一定の効果を発揮し、大塩は近隣農村に施しをした際に「大阪に変異ありと聞きつけたら駆けつけて欲しい」と乱の参加を促していたが、飢饉対策が機能していたため、大阪に近い農村ほど参加者が少ないという事態に陥った。大塩平八郎の乱失敗の一因になったとされる。


創作作品の大塩平八郎編集


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大塩平八郎の乱

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