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土井利位

どいとしつら

江戸時代後期に生きた日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物として知られている。土井家宗家11代。江戸幕府の老中首座。下総古河藩主。
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経歴編集

江戸時代後期の寛政元年5月22日(1789年6月15日)に出生。父は三河国刈谷藩主の土井利徳。幼名は六郎。


文化10年(1813年)に下総古河藩主の土井利厚の養子となって、従五位下・主膳正に叙任される。


古河藩主と雪華図説編集

文政5年(1822年)に養父利厚の死去を受けて古河藩主に就任し、大炊頭に叙す。


天保2年(1831年)に蘭学者の鷹見泉石を家老に登用して藩政改革を行っている。また、鷹見の協力により雪の結晶の研究を行い、『雪華図説』を天保3年(1832年)に刊行し、「雪の殿様」の異名で知られ、日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物といわれている。

雪華紋様の別名を「大炊模様」と呼ぶのは、利位の公称で官名の大炊頭が由来である。



大塩平八郎の乱を鎮圧した功績により、天保8年(1837年)に京都所司代に就任する。



江戸幕府老中編集

天保9年(1838年)には江戸幕府の老中に就任する。天保10年(1839年)に越前敦賀藩主の酒井忠藎の次男である土井利亨を養子に迎える。


天保12年(1841年)から始めた水野忠邦による天保の改革に協力する。しかし天保14年(1843年)に忠邦が打ち出した江戸、近畿地方の上知令には自身の所領の飛び地が近畿地方にあったこともあり反発し、鳥居耀蔵のリークもあって水野を失脚させた。


忠邦が失脚したことで老中首座となり、向井源太夫の協力もあって大阪の米先物取引などで幕府財政を好転させることに成功した。

しかし、天保15年(1844年)に江戸城本丸が火災で焼失し、その再建費用捻出のための諸大名からの献金が不十分だったことで、徳川家慶の不興を買い、外国船問題紛糾もあって、水野が老中首座に返り咲いた。水野の報復に加えて、家慶の信任も失ったことで同年10月に老中を辞任する。


嘉永元年(1848年)に養嗣子・利亨に古河藩主を譲って隠居して官名を織部正と変更するも同年7月2日(1848年7月31日)に死去。享年60。



血統編集

家系は土井家であるが、実父の土井利徳は仙台藩主伊達宗村の3男にあたり、利位は江戸幕府若年寄で『禽譜』や『観文禽譜』といった鳥類分類図鑑の作者である堀田正敦の甥にあたり、血統上は伊達政宗の子孫でもある。


なお、水野忠邦は血統上は浅野長政の子孫なので、家慶治世中の江戸幕府は老中筆頭に二連続で外様大名の男系血統が就任していたことになった上に、かつての伊達政宗と浅野長政の対立を彷彿させる状況となっている。


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