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田沼意次

たぬまおきつぐ

江戸時代中期の旗本、のち大名(相良藩初代藩主)、江戸幕府老中。
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略歴編集

享保4年(1719年)7月27日江戸旗本の家に生まれ、9代将軍・徳川家重により1万石の大名に取り立てられた。

第10代将軍・徳川家治の信任を背景に側用人となり、安永元年(1772年)、ついに江戸幕府の施政を取り仕切る老中に就任。


田沼を中心とする幕府閣僚は、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。


具体的には、株仲間(同業者のカルテル)の結成を奨励し、株仲間に税金(冥加金)を課しこれを財源とした。また、幕府の直営事業として座などの専売制の実施、平賀源内らを起用して鉱山の開発などの殖産興業策に取り組んだ。だが、その立案、運用が実のところ場当たり的なものが多く、幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人も少なくなかった。

このため、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもままあり、撤回に追い込まれるケースも多発していた。そして、益の薄い農業で困窮した農民を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。


そんな中、長引く冷害に浅間山の爆発が重なり、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて天明の大飢饉が発生してしまう。江戸の米価も暴騰し、一揆打ちこわしなどが多発し民衆の怒りは田沼に向かった。飢饉のさなかの1784年(天明4年)、旗本の佐野政言によって、若年寄を務めていた長子の意知を殺されてしまう。この事件は幕閣内で松平定信ら反田沼派が台頭するきっかけになり、田沼政治を嫌っていた江戸市民の間では佐野は「世直し大明神」と呼ばれ崇められた。


天明6年(1786年)、家治の死去を期に田沼は失脚。最大5万7000石といわれた田沼家の所領も軒並み剥ぎ取られ、本領の遠州相良も破却された。家督は孫の田沼意明に継承されることを許されたが、陸奥下村1万石へ減封移封となった。


田沼は失意の中で天明8年(1788年)6月24日、70年の生涯を閉じた。


新たに老中となった白河藩主・松平定信(11代将軍徳川家斉の従兄、8代将軍・徳川吉宗の孫でもある)は幕閣から田沼派を一掃し、田沼の失政の是正を目指した「寛政の改革」が行われることとなる。


評価編集

一般には、「江戸三大改革」とされる松平定信の「寛政の改革」と対比される形で、「汚い政治家」「賄賂政治」として非難されてきた人物である。田沼時代の風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、「利益追求型で場当たり的」「有力町人との癒着」「金権政治」の時代であったと評価される。


近年ではその反動で、田沼の時代は民間からの事業や政策案を積極的に採用し、様々な産業や学問、大衆文化が発展したとしばしば評価され、時代小説や漫画などの創作においても「先見性に富んだ改革者」としての田沼像が描かれることも多い。ネットなどでは田沼が賄賂を一切受け取ったことはないといった極端な風説も出回っている。


だが、彼の政策には事実として確実にマイナス面が存在した。一つは緊縮財政。昨今では田沼は積極財政で景気を良くしたと言われることがあるが、実際は認可権を行使して民間の商人に任せ、行政コストを削減する手法を多用した。これにより幕府の財政状況の改善を狙ったのである。また、紙幣の流通を制限し、金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止しデフレを招くなどの「反動的」な通貨政策も取っている(後に南鐐二朱銀発行による積極的通貨政策に転換するが)。これは「先進的な改革者」としての田沼像とは明らかに矛盾するものである。


田沼の緊縮政策は財政改善に一定の成果を上げたものの、結果的には挫折した。上記の株仲間は商人たちに利益を稼がせ、そのうちの一部を幕府財政に繰り入れようとした施策であるが、実際には上記のデフレと飢饉のために思惑通りにはいかなかった。最初の宝暦元年~11年の毎年は米は赤字のときもあったが金は黒字続きだったのが、宝暦12年から次の明和では米金ともに赤字転落。明和7年からは黒字に転じるが、これは南鐐二朱銀を発行し積極的通貨政策に転じたこともあるが、緊縮路線、特に明和8年からの5年間の倹約政策が大きい。その後はまた黒字は減っていき、そして天明の大飢饉による大赤字。幕府はこれを受けて更に厳しい倹約政策を敷き、大名への資金援助の拝借金も停止。そのくせ公共工事負担は大名に積極的におしつけていった。その結果農村は荒廃し、都市部の物価は高騰、諸藩は困窮しているのに負担ばかり増やされ、庶民から大名に至るまで幕政への不満が溜まっていき、田沼の失脚に繋がるのである。


このほか、田沼に関しては在任期間中に冷害や噴火と言った「人の身ではどうにもならない天災が多発したのが不幸」だったのであり「運が悪かっただけ」という擁護論もある。しかし、天明の飢饉が深刻化したのは人災の側面が大いにあり、田沼自身もその一端を担っている。飢饉下で米の流通量を増やすために施行された米穀売買勝手令(米穀流通の自由化)はかえって商人たちの売り惜しみに拍車をかけ流通の混乱を招いたし、田沼の推進した二朱銀の通用推進政策は金、銀、銭の相場の混乱をもたらし経済混乱に拍車をかけた。幕府が武家、町方、寺社に命じた米の放出命令が十分に機能しなかったのは、贈賄して取り締まりを免れる行為が横行していたためだという。また、天明3年(1782年)~同4年に奥羽で特に飢饉が深刻化したのは、天明2年(1782年)の西日本凶作に際し、財政立て直しのため備蓄米を払底し江戸への廻米に向けたという各藩の失政が大きな原因だったが、重商政策が裏目に出た面も大いにある。そもそも冷害は突然起こったわけではなく、1770年代から東北での天候不順が続いていた。


なお、田沼の施政を全否定したかのように言われる松平定信の「寛政の改革」だが、近年の研究ではむしろ田沼の政策との連続面が強調されている。定信は運上・冥加金の一部撤回を行う一方、民間の商人と連携し幕府の財政支出を抑え、財政収支の均衡を狙う政策を多用したが、これは田沼の手法を継承したものである。田沼の推進した二朱銀の通用も停止せず、むしろ田沼時代にはあまり使われていなかった西日本の各国でも通用させた。貨幣政策においては、民間が発行していた紙幣である山田羽書を山田奉行(伊勢奉行)を通して幕府管理下に置くなど、田沼より「先進的」な政策も取っている。


田沼の改革はしばしばその「先進性」が強調されるが、実際のところ田沼の執った施策は極めて近視眼的なものが多く、全体として江戸幕府の従来の価値観から抜け出るほどのものでは無かった。だがその中で南鐐二朱銀を流通させた田沼時代後期の通貨政策は(導入の手法が強引で混乱を招いたものの)秤量貨幣から計数貨幣への移行として積極的意義が認められる。


余談編集

10代将軍・徳川家治の死去にあたって、田沼は病床に伏した家治のために町医者を紹介、しかし、町医者の調合した薬を飲用後に家治の容態が急変して死去したため、一時は田沼による毒殺説がささやかれることになったが、政権の後ろ楯となっている家治を毒殺する理由がないため、現在ではこの説は否定されている。


嫡子の意知は前述の通りに暗殺され、意次の隠居後の家督は孫の意明(龍助)が継承した。田沼家の領地は陸奥下村藩1万石に移封されることとなるなど、意次失脚の影響が後を引いた。また、意明やその弟の意壱・意定といずれも20歳前後で早世し、意知の直系子孫はここに途絶えている。一端意次の弟の孫に家督が渡ったが、彼も早世したために意次の四男・意正が継承した。

この頃になると将軍・家斉と松平定信の仲が極端に悪化しており、定信失脚後は家斉から許されるように田沼家は故地・相良に領地を戻している。


意正の跡は意留・意尊と続いたが、意尊に男子は生まれず、意次の男系はここに断絶することとなった。意尊の長女・智恵が公家の伏原宣諭の子・望と結婚し、この望が次期田沼家当主となった。維新後、望が子爵に叙され、田沼(相良)子爵家となる。しかし望の長男・田沼正の代になって爵位返上の憂き目に会う。その後、正の弟である貢二が家督を継承し、その子である田沼道雄が現在の田沼家当主とされている。2018年には、意次の生誕300年を記念した式典に道雄が出席した。


また田沼意次にゆかりのある牧之原市(相良藩)では「ワイロ最中」なるお菓子も作られた。


関連タグ編集

江戸時代 江戸幕府 徳川家治 徳川吉宗 松平定信

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