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一揆

いっき

意を一つにまとめた集団、およびそういった集団が目的達成のために行動すること。
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概要

『一揆』とは、圧制などの社会共同体に対する危機に対し、住民たちが目的(揆)を一つにすることを指す言葉であり、必ずしも武装蜂起しての『打ちこわし』とは限らない。
一般的に「農民が集まって武装し、お偉方に反逆する」というイメージがあるが、実際はそういったテロ行為ではなく、暴動を起こすことは『一揆』のほんの一握りに過ぎない。
そして、結託した住民が行動を起こすことも『一揆』と見なされ、こうした場合はデモ直訴なども一揆に当たる。
そのようなイメージが薄く、『一揆=暴力』という印象が強いのは、室町時代戦国時代等に『国一揆(地方の豪族や領主が集まったもの)』、『土一揆(農民、商人などの集団)』、『一向一揆(一向宗(浄土真宗)を信仰する人々によって起こされたもの)』などと言った集団による大規模な武装蜂起をしての一揆により、その起こした張本人たちが政権を倒して自治権を得たという事例が残っているからだろう。
よって、一人で竹槍持って武家に戦いを挑んでも一揆とは呼ばれないのである。

また、ドイツ語におけるPutschの日本語訳として使われることもある。


日本における『一揆』

『一向一揆』

概要に掲げた一揆の中で最も大名に恐れられたのは、一向宗徒が中核となって引き起こした『一向一揆』であった。
一向宗とは石山本願寺によって体系化された仏教の一大宗派として君臨し、日本各地に末寺を置く日本最大の宗教集団であり、体系化された一向宗徒はあらゆる階層に入り込むことによって、商人・百姓・浪人のみならず、大名に仕える武士すら主君に逆らって、一揆に与することさえ珍しいことではなかった。厄介なことに彼らは「仏さまに仕えていれば、死後も浄土で仏さまに救われる」との考えから死をいとわずに領主を襲うこともためらうこともなかった。
その猛威に加賀の守護大名・富樫氏は滅亡、三河の徳川家康は滅亡寸前の窮地に追い込まれ、織田信長ですら伊勢・長嶋の一向一揆に苦戦、総本山・石山本願寺とは苦闘の末、ついに屈服させることができずに和睦することでようやく戦いを終結させるに至った。

連判状

一揆が頻発してくると、それに伴い形式なども整っていった。
一揆を起こす際にはメンバーの名前をに書いて記すことで確認を取るが、この署名された文書を連判状と呼ぶ。普通に縦書き右詰めで書くと誰がリーダーかすぐバレてしまうため、傘連判状といっての中央に向けて放射状に書く(寄せ書きをイメージしていただければよい)ようになった。
また決戦前には、この連判状や誓約などを書いた文書を焼いてにし、それを神前に供えたに溶かして飲みほし、結託を行うという儀式も行われた。これを一味神水と呼び、目的を一つにしたチームを「一味」と呼ぶようになったのはこれが語源である。

刀狩り

百姓・浪人が一揆をおこさないよう、権力者が農民から武器を取り上げることをいう。
歴史上、もっとも有名な『刀狩り』は豊臣秀吉が行った『刀狩令』で、口実としては大仏を建立するために功徳を積むよう、天正16年(1588年)に布告された。


ドイツ語の『Putsch』

こちらは、政権転覆を企てての蜂起という意味があり、クーデターに近いものがある。
有名なものとしては、ワイマール共和政期の1921年に発生した『カップ一揆(Kapp-Putsch)』、1923年に発生した『ミュンヘン一揆(München Putsch)』がある。


関連項目

強訴 抵抗 反乱
日本史 歴史

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