概要
手段を選ばず、時に不法、違法行為(明らかに法律に反する場合や、反しないまでも法律スレスレな行為をする場合もある)などの非正義行為を確信犯的に行う人間(団体)を指す。
「ひどい人間だ」と言われるが、時に褒め言葉的ニュアンスもこめて呼ばれることもある。
歴史用語としての「悪党」
主に平安時代後期から南北朝時代にかけて、支配における体制側(国衙や荘園領主)に反抗する人物・集団を、体制側から指した呼称である。当時の播磨国地誌『峯相記』から、その姿を描写すると「正安・乾元の頃(1300年前後)から、悪党の活動は目にあまるようになってきた。山伏のように柿色に染めた着物で烏帽子も被らず、ほかの人々とは異なる異形ないでたちであった。柄も鞘も禿げたボロ刀を差して長い竹槍や撮棒(カシ等の固い木の棒)などで武装し、賭博を好み盗みに興じた。争いごとに雇われて裏切りを常とし、10人、20人といった群れをなして城に立てこもり、合戦を行った。1320年ごろになると100騎もの軍勢をなして、弓矢や鎧に金銀を散りばめて立派な馬に乗るほどに勢いを伸ばしていった」とのこと。
こうした描写から、公家や寺社勢力など「既得権益」に対抗する勢力として歴史上位置付けられた、こともあった。
実際のところ、悪党は単なる山賊・海賊の類ではなかった。記録によれば、往々にして、在地の有力者だったり、よその地域では体制側だったりしたので、分権的な中世社会では摘発は極めて困難であった。鎌倉時代も後期に入ると、荘園での本所と荘官の対立、武士相互の格差の増大、既存の支配体制外の集団の増加などにより、悪党と見なされる存在は急増した。というか、増えすぎて誰もかれもが悪党と見なされるようになってしまった。あまりに多くて、現代の歴史家から「悪党の時代」と呼ばれるくらい。とりあえず気に入らないやつは皆「悪党」にしてしまう風潮だったらしい。
これら「悪党」で特に有名なのが、後醍醐天皇による倒幕に関わった楠木正成、赤松円心、名和長年などである。
類似な例
スケールの小さい悪党。概ね褒め言葉的ニュアンスにはならないが、その小ささ、情けなさからギャグとして逆に愛される場合もある。敵側サイドの人間を指すことも多い。
- 大悪党
↑の反対例。スケールの大きさ、堂々とした悪党っぷりからカリスマ性を発揮する場合もある。
- 悪徳
不法、犯罪行為を取り締まる側の職業につく冠詞(悪徳政治家、悪徳警察官)。小悪党になりがちな類型である。
正義がどちらにあるか、というのは作品によって違い、敵側のキャラの方が「正義」であったという例もある。