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解説編集

自ら(の所属する集団)の意見を、仲介なく直接統治者などの偉い人に訴える行為のことである。

途中で妨害されて失敗に終わる事も多く、仮に成功しても越権行為として処罰されることもあるなど、ハイリスクな割にローリターンな行動である。


直訴の歴史としては、まず一揆の歴史から語るべきであろう。

平安時代、政治的にも力をもった寺院はみずからの武力をもって僧兵を組織し、京の都にみこしを担いで「強訴」を繰り返した。これらの動きには朝廷の独裁者であった白河法皇ですら手を焼き、「自分の思い通りにならぬ3つのうちの一つ」に比叡山延暦寺の僧兵を挙げている。

僧兵の軍事力は戦国時代末期まで続き、寺院が政治に口を出すのを嫌った「織田信長」はついに比叡山焼き討ちを行い、僧兵の力をそぐのにようやく成功した。(ただ、この成功体験によって織田家の運命が決まってしまうのだが)


戦国時代中期に起こったのが「一向一揆」である。一大宗教組織に発展した一向宗は強大なネットワークをもち、それらに武士・農民などが身分によらず一向宗というファクターによって糾合、強大な軍事力によって領主たちを圧迫した。

この「一向一揆」によって加賀を治めていた富樫氏は滅亡、三河の徳川家康は滅亡寸前に追い込まれ、織田信長すら、ついに屈服させることはできなかった。


宗教や農民による一揆に恐怖した豊臣秀吉は、天正18年(1580年)、大仏を作ることを名目に刀狩を断行、農民から刀や槍などの武器を取り上げた。

この政策には一定の成果があったが、最下層の兵である足軽は農民も徴用しており、必ずしも徹底されているわけではなく、国替えによって新たな領主となった大名に一揆を起こす例も少なからずあった。


江戸時代初期、幕府を揺るがす大規模な一揆が起こった。寛永14年(1637年)に起きた[島原の乱]である。この一期には領主の暴政によって追い詰められた農民にキリスト教徒や潘を取り潰された浪人が参加、幕府はこの乱の鎮圧に半年を要し、双方に多数の死傷者を出すに至った。

この事件と後に起きる由比正雪の幕府打倒の謀議が発覚したことによって、幕府は無理な藩の取り潰しや年貢の取り立てを緩和、文治的な政権へと変化していった。

幕府は一方で首謀者の厳罰化を進め、首謀者は自身のみでなく家族まで処刑の対象となった。これは一揆の一種である直訴にも適用され、直訴は江戸時代を通じて命がけの政治的行動となった。

余談ながら、江戸後期になると一揆が頻発し、農民もこのころになると円型に署名し、首謀者がだれかわからぬよう工夫するようになった。


明治時代、世に知られる直訴として「足尾銅山鉱毒事件」がある。明治34年(1901年)12月10日、前衆議院議員・田中正造が死を賭して明治天皇に直訴、田中は罰せられることはなかったが、鉱毒対策が検討されることとなった。


これらの例をもって下位に位置するものが上層部に訴え出ることを「直訴」というようになった。

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