第72代天皇、白河天皇(1053年-1129年、在位1072年-1086年)の出家後の呼称。
史上初の院政を敷き43年間「治天の君」として最高権力を握り君臨。
実権をもって政治を動かした天皇の一人である。
1086年(応徳3年)に皇子の堀河天皇に譲位し太上天皇(上皇)に退いたが、天皇が幼少であるため引き続き政務を執った。これが「院政」の始期とされる。1096年に出家、これ以降を法皇と後世称している。
堀河天皇が崩御し孫の鳥羽天皇がやはり幼少で即位後は藤原摂関家の当主藤原忠実が若年だったこともありほぼ独裁的な権力を行使するに至った。平家物語ではこの頃の法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と語ったという逸話が紹介されている。
京都を流れる鴨川の水害、双六のサイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵の三つが思うとおりにならない…との嘆きだが、逆説的にはそれら以外は何事も思い通りに動かせる当時の法皇の絶大な勢威を表した言葉にもなる。
大治4年(1129年)7月7日、77歳(数え年)をもって崩御。
出家後も男女問わず多数の相手と関係を持ったことから、曾孫の第74代崇徳天皇(崇徳上皇、鳥羽天皇第1皇子)や平清盛らが実は白河法皇の子であるという俗説が生じた。
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院政・・・上皇が天皇の補佐として実権を握る政治。
治天の君・・・数名上皇がいる場合、最も政治の中心で実権を握った最高権力者。
後白河天皇:曾孫。