概要
平安時代後期の第72代天皇(天喜元年6月19日(1053年7月7日) - 大治4年7月7日(1129年7月24日) 在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月5日))。諱は貞仁。
即位まで
尊仁親王(のちの後三条天皇)の第一皇子として生まれる。母は藤原茂子(閑院流の出身で、藤原道長の子(頼通の異母弟)の能信の養女)。
尊仁親王の父は第69代天皇・後朱雀天皇、母は67代天皇・三条天皇の皇女・禎子内親王であることから、藤原摂関家とは血のつながりが薄い(禎子内親王は道長の外孫であるが)。そのため兄・親仁親王(後冷泉天皇。道長の外孫で、中宮は道長の跡継ぎである頼通の娘)が即位して皇太子となった後も摂関家(特に頼通)に冷遇された事もあり、政治的にも対立を深め、摂関家の意向に沿わない革新的な天皇親政を進めた。頼通は同母弟の教通や自身の同母姉で天皇の祖母である彰子と対立しており、他に彼の助けになる兄弟がいなかったことやや実子を授かることが遅かった事もあって対抗できなくなる。
在位中
延久4年(1072年)、父帝の譲位により貞仁親王が即位する。即位した後も、摂関家から教通や師実が関白に就任したが父帝同様摂関家とは血縁が薄く、しかし中宮(藤原賢子)が師実の養女であるため、祖母の陽明門院(禎子内親王)の意図に逆らって異母弟の輔仁親王を皇位継承から排除して、中宮との子である第二皇子・善仁親王(のちの堀河天皇)に譲位するなど、かえって師実とは協調的になっていた。
退位して
応徳3年(1086年)11月、善仁親王(堀河天皇)に譲位したが、天皇は8歳と幼く、後見人として引き続き政務を執ることとなり、摂関家の介入を廃して実権を握った。後世「院政」と称される新たな政治形態がここに始まる。
……のだが、当初はあくまでも堀河天皇が成長するまでの後見であり、本格的な院政は、関白であった師通(師実の子)と堀河天皇が相次いで早死にしてしまってからの話。
この先の詳細は、「白河法皇」の項目を参照のこと。
皇統
・敦文親王
・媞子内親王
・令子内親王
・善仁親王(第73代・堀河天皇)
・禛子内親王
- 女御:藤原道子 ー 藤原能長の娘
・善子内親王
- 典侍:藤原経子 ー 藤原経平の娘
・覚行法親王
- 後宮:源師子 ー 源顕房の娘
・覚法法親王
- 後宮:源頼子 ー 源頼綱の娘
・官子内親王
- 後宮:藤原季実の娘
・恂子内親王
- 後宮:春日殿 ー 藤原師兼の娘
・聖恵法親王
- 後宮:源政長の娘
・行慶
- 後宮:備前 ー 源有宗の娘
・円行
- 不詳
・静証
暴君伝説!!
この白河天皇、先例に無い事を強引に推し進めたので暴君のイメージがある。
史実に残っている具体例を挙げると以下のようになる
野宮に乱入!
1078年、伊勢神宮の齋宮が欠員になったので占ったところ、天皇の娘・媞子内親王が選ばれた。
しかし、翌年、野宮(齋宮の身を清める為に隔離する施設)になんと父帝が自ら乱入!!
「こんな幼い子供を一人で放っておけるか!!!」
当時、媞子内親王は僅か3歳であった・・・。
宮中で死者が!!
1084年、中宮(皇后)藤原賢子が重病に倒れる。
当時は中宮や上皇のような高貴な身分の人間でも、宮中での死は御法度、重病になったら御所から出されるのが決まりであった。
「重病なのに無理に動かしたら后が死んでしまうではないか!!」
白河天皇は妻を宮中に留め置き、必死で看病。
しかし、必死の看病の甲斐もなく賢子は崩御。
愛妻の遺体に取り縋って号泣する白河天皇に周囲は『天皇が死の穢れに触れるなど・・・』と苦い顔。
「例はこれよりこそ始まらめ(これを未来の先例にしろ)」という有名な台詞はこの時、批判する公卿に対して反論した台詞である。
因みに、白河天皇の女性関係が派手になるのは譲位後で、賢子の生前は寧ろ后にぞっこんの愛妻家だったりする。
源義家を冷遇
後三年の役(1083~1087)を平定した源義家の功績を認めず更迭し、義家に不遇の時代を過ごさせた・・・と言うのは河内源氏の目から見た史観。
元々、白河天皇は黄金などの東北地方や東北地方を通してしか購入出来ない物産の貢納と出荷の停止による経済混乱を危惧しており、義家に早期停戦を指示していたにも拘らず、清原家衡の軍勢を壊滅させるまで戦ったのは義家の方(妻子を弟に闇討ちにされた家衡の兄、藤原清衡が激怒して収まりがつかなかったのが最大の理由であるが)。
案の定、恐れていた経済混乱が起こり、白河天皇(1087年に譲位して上皇)の下に苦情が殺到するも、貢納の税金の分まで戦費に使っていた義家はこの経済混乱を治めるどころではなかった。
止む無く、「朝廷への貢納分だけでも10年分割払いで返済」という事で手打ちにして、経済混乱の後始末は上皇と側近達がする羽目に。
其処まで騒ぎになったにも拘らず、貢納の弁償が済んだ直後に彼を正四位下に昇格させ、院殿上人に加えた白河上皇には公卿達からかなりの非難が集中した。
白河上皇は自分の苦しかった時期に警護役を買って出てくれた義家に対する感謝を忘れてなかったのだ。
義家晩年に息子の対馬守・源義親が反乱を起こした際にも、討伐指令を出す前に義家の部下から説得の使者を出す事を許している(木乃伊取りが木乃伊になる最悪の結果になったが・・・)ので、最後まで義家には好意的だったと言える。
このように、当時は暴君と言われた行動も、現代人の目から見ると普通の人間が妻子や恩人に抱く感情を発露しただけにも見える。