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藤原清衡

ふじわらのきよひら

藤原清衡とは、平安後期の武将・軍事貴族。前九年の役の敗者・藤原経清の遺児で、母の再嫁先である清原氏の内紛に端を発した後三年の役を勝ち抜き、奥州藤原氏の祖として一大勢力を築いた。(1056年-1128年)
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概要

 11世紀後半~12世紀前半にかけて奥州に勢力を有していた軍事貴族。実父は陸奥国亘理郡(現・宮城県)の豪族・藤原経清、養父は出羽の豪族・清原武貞。義兄に清原真衡、異父弟に清原家衡がおり、これら兄弟とは後三年の役で敵対関係となった。


 清衡の生まれた奥州藤原氏は藤原秀郷の流れを汲む一族であったが、前九年の役で母の実家である安倍氏と共に源頼義と敵対し敗北、幼少の清衡は母の再嫁先であった清原氏に引き取られる身となった。このような経緯から当初は清原清衡と名乗っていた事もある。

 やがて清衡氏内部で内紛が勃発すると、当初は異父弟の家衡や義叔父の吉彦秀武らと共に、真衡や陸奥守の源義家と敵対するが、真衡の急死に伴う遺領分配を巡って今度は家衡と争う事となり、妻子一族を失いながらも義家らの助力により一連の内紛の勝者となった(後三年の役)。

 戦後、同盟関係にあった義家が陸奥守を解任された事もあり、奥六郡(現・岩手県奥州市~盛岡市一帯)を始めとする清原氏の領土は清衡が単独で支配する事となった。朝廷や摂関家への供物などを通して中央との関係を良好なものとし、また陸奥の押領使に任ぜられた事で奥羽全域への支配力を強化。晩年には平泉に一大拠点を築き、また現在も残る中尊寺の建立や北方貿易などを通して、およそ一世紀にも及ぶ奥州藤原氏の栄華の原型を作り上げた。


生涯

前半生(後三年の役・前半戦)

 天喜4年(1056年)に藤原経清と、有加一乃末陪(陸奥の豪族・安倍頼時の長女)との子として生を受ける。この当時父・経清と安倍氏は、時の陸奥守であった源頼義を中心とした朝廷軍との間で交戦状態にあり、一時は安倍・藤原連合軍が朝廷軍を圧倒するも、出羽の有力豪族である清原氏の加勢を得た朝廷軍が、最終的な勝利を収める事となった(前九年の役)。

 敗軍の将となった父・経清は錆刀による鋸引きで斬首に処されたが、当時7歳であった清衡は母の有加一乃末陪が清原武貞へ再嫁したのに伴い、武貞の養子となる形で一命を救われた。


 それから20年余り後の永保3年(1083年)、清衡の義兄でもある真衡の代になり、清原氏内部で内紛が勃発する。直接の発端は真衡と、一族の長老格であった吉彦秀武との間の諍いであったが、その背景には真衡による源氏・平氏との婚姻を通した棟梁の権限強化、そしてそれに伴い秀武や清衡ら一族を家人として、棟梁の真衡に従属させようという動きへの不満が横たわっていた。

 内紛の勃発に伴い、秀武に促される形で清衡も異父弟・家衡と共に挙兵、真衡と武力衝突に及ぶ事となる。しかしこの年陸奥守として下向してきた源義家が、真衡側に加勢した事もあり清衡・家衡兄弟は惨敗を喫し、義家への降伏を余儀なくされた。


家衡との対立(後三年の役・後半戦)

 ところがその直後に事態は急展開を見せる。勝者であるはずの真衡は出羽への行軍中に急病で他界。これを受けて陸奥の国府は真衡の遺領である奥六郡のうち、清衡には和賀・江刺・胆沢の三郡を、家衡には岩手・紫波・稗貫の三郡をそれぞれ与えるという裁定を下し、内紛もひとまずの収束を見たのである。

 しかしこの裁定を、清衡に有利なものとして家衡が不服を示し、遂には軍勢をもって清衡の館を襲撃に及んだ。真衡の死から3年が経過した応徳3年(1086年)の事である。かくして、一旦は落着していた清原氏の内紛は真衡と清衡ら他の一族との対立から、清衡と家衡の兄弟間を中心とした対立へと、その性格を変えていく事となった。


 辛くも生き延びたとはいえ、家衡の襲撃により妻子一族を失うという悲運にも見舞われた清衡であったが、そんな彼にも心強い味方が現れた。家衡のこの行動によって面子を潰された格好となった源義家その人である。対する家衡も叔父である清原武衡藤原千任の助力を得て、両者間の対決は国府をも巻き込んで大規模なものへと発展していった。

 当初は攻城戦の備えが万全でなかった清衡・義家軍に対し、沼柵そして金沢柵と守りの万全な城柵に拠った家衡・武衡軍優位のまま戦局は推移。翌寛治元年(1087年)には義家の次弟・源義光が官職を辞してまで援軍に駆けつけるも、金沢柵の攻略は依然遅々として進まぬ状態が続いた。

 ここで清衡と義家は、彼らに味方していた吉彦秀武の提案を容れる形で、兵糧攻めへと方針を転換する。敵方の投降を一切許さず、時には女子供をも皆殺しにするなど徹底した封じ込め策の末、食料が底をついた家衡・武衡軍は遂に柵を放棄して敗走を余儀なくされ、遂には両名とも討ち取られるに至った。


奥州の支配者

 後三年の役はこうして清衡・義家軍の勝利の内に幕を閉じたが、戦後の両名の明暗はくっきり分かれる格好となった。

 義家は一連の戦いを公の戦として、追討の官符と恩賞の充行を朝廷に要請。これによって引き続き陸奥への影響力を保持しようとしたが、朝廷からはあくまでも「私戦」と見做され恩賞も与えられず、さらには戦いの最中に官物の貢納が滞った事を理由として、翌寛治2年(1088年)に陸奥守をも罷免されてしまう。

 一方で清衡は、奥六郡を初めとする清原氏の旧領全て、それに真衡の有していた権限や統治機構をそのまま継承し、さらに義家の陸奥守罷免に伴いその影響力から脱する格好ともなった。実父・経清の名乗っていた藤原姓に復し、ここに清衡は奥州の支配者としての第一歩を踏み出したのである。


 その後清衡は江刺の豊田館を拠点とし、砂金や馬などを始めとする奥羽の特産品を朝廷や藤原摂関家へ度々献上した他、中央から派遣された国司に対しても、奥州の有力者として協力を惜しまない姿勢を示し、彼らからの信頼を得る施策を取った。また領内の神社の年貢金の代納などを通して、奥羽における統治の強化も図っている。

 こうした取り組みが実を結び、奥州にあった摂関家の荘園の管理を任されるようになったとされる他、寛治年間には朝廷から陸奥の押領使(現在の地方警察に相当する役職)にも任官されており、これによってそれまでの奥六郡のみならず、国府の管轄範囲たる衣川以南へも清衡の影響力を行使出来るようになった。以降、この押領使の職は奥州藤原氏によって代々世襲され、奥州藤原氏による奥州支配の根拠のひとつともなった。


 嘉保年間に入るとそれまでの豊田館から、水運の要衝として重要な地であった磐井郡の平泉に本拠を移し、新たな政庁として「平泉館」を建設。さらに仏教による平和希求を企図した中尊寺の建立や、などを相手とした北方貿易といった取り組みを通じて、奥州における政治・文化の中心としての平泉の整備に努めた。

 こうして奥州藤原氏の栄華の礎を築いた清衡は、中尊寺金色堂の落慶を見届けた後、大治3年7月13日(1128年8月10日)に73年の波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。死後、清衡の遺骸はその金色堂に納められ、昭和期に入ってからの学術調査によりその血液型や身体的特徴、さらには死因なども明らかにされている。


関連タグ

奥州藤原氏 源義家 平泉

村上弘明 - 1993年放送のNHK大河ドラマ炎立つ』(第2部)にて清衡役として主演したのをきっかけに、後年開催されたイベントや岩手県のPR動画などでも清衡役として度々出演している。

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