概要
生没年:長治2年(1105年)? - 保元2年3月19日(1157年4月29日)
平安後期の陸奥・出羽の豪族で、奥州藤原氏初代の藤原清衡の次男にして2代目当主。生年は長治2年以外に前記した2カ国の押領使を務め、陸奥国司との融和策などを通して院や中央政界へも少なからぬ影響力を示した。また後述の毛越寺を始め数々の寺院の建立や、北方貿易など先代以来の文化・経済面での発展を推進し、平泉のさらなる繁栄を実現させた。
現在、その遺骸は父・清衡や長男・秀衡と共に、ミイラとなって中尊寺金色堂内に安置されている。両足の先以外ほぼ完全にミイラ化した遺骸には金箔が施され、錦で内貼りされた木棺の中に念珠や刀などの副葬品と共に納められている。また昭和年間に実施された学術調査では、血液型や身長などといった身体的特徴、それに死因を推測する上での様々な手がかりも明らかにされている。
生涯
家督相続と内乱
基衡の生年は前述の長治2年以外にも諸説あり、少なくとも康和4年(1102年)から長治2年までのどこかで生まれたと見られる。また生母についても父の正室である北方平氏とも、もしくは安倍氏の娘とも言われるなど未だ確定を見ていない。
父・清衡が病死した翌年の大治4年(1129年)、基衡は清衡の後継を巡って異母兄・藤原惟常を始めとする兄弟たちと争った。この争乱の背景には安倍氏出身の母を持つ(前述の通り異説もあり)基衡と、清原氏出身の母を持つ惟常のそれぞれを担ぐ家臣団同士での対立もあったと見られている。
基衡はこの時あくまで「御曹司」、即ち父の居候という立場に過ぎず、本来の後継者はあくまで「小館」たる惟常であったと見られているが、基衡は惟常の本拠である「国館(国衙)」を攻めるなど圧迫を加え続けた結果、惟常は子息らと共に再起を図るべく越後へと逃亡。しかし逆風で船が押し戻されるなど逃亡は失敗に終わり、惟常らは基衡軍に捕らえられ斬首とされた。
内乱を制し奥州藤原氏の2代目当主となった基衡は、一連の戦いで基衡方についた信夫佐藤氏の支援の元、当主権限の強化などを通して独立性の強い家臣団の統御に務めた。
中央政界との駆け引き
当主就任からしばらく後の康治元年(1142年)、新任の陸奥守として院近臣の藤原師綱(戦国時代の姉小路頼綱に乗っ取られた飛騨国司家・姉小路氏の祖)が赴任すると、基衡との間で対立が生じる事となる。この頃の陸奥は奥州藤原氏による実効支配が進んでおり、中央から見れば「基衡が一国を押領し国司の威厳もない」という状態であったため、師綱は国司の権力を回復すべく宣旨を得た上で、陸奥信夫郡の公田検注を実施しようとした。
これに対し基衡は、自身の家人で信夫大庄司でもあった佐藤季春(季治、佐藤師治(源義経の忠臣佐藤継信・忠信兄弟の祖父)と同一人物か)に命じ公田検注を妨害させたが、この時国司側との間で武力衝突が発生、相手方に多数の死者が出るなど思わぬ大事へと発展した。師綱はこの事態に激怒し基衡の責任を追及、已む無く基衡と季春との談合の上で季春が国司の元へ出頭、彼一人が責を負って処刑されるという形で一応の落着を見た。
この一件で、国府と事を構えるのに懲りた基衡は融和策へと方針を転換。師綱の後任である藤原基成とは当初より婚姻関係を通して友好関係を築き、さらには自身の支配体制に組み込む事で、国府への影響力と院との繋がりを得る格好となり基成の異母弟・藤原信頼の勢力伸長にも寄与した。基成はその後任期満了を待たずして帰洛するが、後の平治の乱の折に信頼が処刑されると、基成もそれに連座して陸奥へ配流となり、以降は自身の娘婿の秀衡や外孫・藤原泰衡の政治顧問的な立場として、奥州藤原氏を支えていく事となる。
一方で、当時の左大臣である藤原頼長が、出羽にあった摂関家荘園の年貢増額を、荘官としてこれらを管理していた基衡に要求するという事態が発生している。これに対し基衡は5年余りもの長期に亘る粘り強い交渉の末、当初の要求から大幅に下回る年貢の増徴で妥結させるなど、単純な融和策だけではなく北方の王者としての意地も示している。
その頼長が深く関わった保元の乱の翌年、保元2年(1157年)に逝去。
毛越寺の建立
基衡の治世中に、本拠たる平泉は都市として大きく発展していくこととなるが、中でも最も大きな事業は毛越寺の建立であろう。9世紀半ばに創建された毛越寺は大火などもあって荒廃していたが、永久5年(1117年)より基衡の手により再興が始められたのを機に、金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていき、京の寺院も凌ぐその様子は『吾妻鏡』の中で「霊場の荘厳はわが朝無双」と表された程であった。
毛越寺に関連して、次のような逸話も数々残されている。
- まず、当時の本尊は基衡の依頼により、都の仏師・雲慶により作られたものであり、その出来栄えがあまりにも見事であったため、鳥羽法皇が京都の外へ持ち出すことを禁じるという事態が発生した。これを聞いた基衡は七日七晩持仏堂にとじ籠って祈り、ようやく法皇より安置の許しを得られたという。
- 上記の一件では、関白・藤原忠通からの取り成しもあったと言われるが、その忠通との間で次のような逸話も伝わっている。忠通は法性寺流の開祖となる程の書家でもあり、基衡は毛越寺の伽藍建立に際し、金堂円隆寺に掲げる額の揮毫を忠通に依頼しようと思い立った。とはいえ、京から見れば俘囚の係累に過ぎない奥州藤原氏が、真っ正直に身分を明かして依頼したところで応じてもらえないのも火を見るより明らかな事であり、基衡は仁和寺を間に通し素性を隠す事で何とか、忠通の揮毫による額を手に入れる事が出来たという。
- 本尊製作に際して、運慶に支払われた謝礼の品物は百両もの金に始まり、絹や奥州産の馬、蝦夷ヶ島(北海道)産のアザラシの毛皮など非常に膨大なものであり、当時の奥州藤原氏が如何に莫大な財力を有していたかが窺い知れよう。またこれらとは別禄として、生美絹(すずしのきぬ)を船3隻に積んで送った際、大変に喜んだ運慶が「練絹なら尚よかった」と冗談まじりに言ったところ、その話を聞いた基衡は大変後悔し新たに練絹を船3隻に積んで送ったとも伝わっている。
関連タグ
中尊寺金色堂−父・清衡、子・秀衡、孫・泰衡と共に葬られている。