概要
古代、漢民族の祖先は各地域ごとに集団を作って生活し、農耕・狩猟中の仕事唄、四季折々に農業の神や祖先を祀るときの歌謡、それらに伴う舞踊に、日々の哀歓を託した。
今から二千数百年から三千年ほど前、シナ西周王朝から春秋時代前半にかけて、北支、とくに黄河流域を中心として歌いつがれてきた歌謡が、やがて詩集の形にまとめられた。
これがシナ最古の歌謡集『詩経』の原型で、今日伝わる『詩経』には305篇の歌謡が収められている。
先秦時代の文献では、この歌謡集は『詩』『詩三百』と呼ばれた。
前漢以降には儒家の経典として尊ばれ、特に南宋の朱熹が〈四書五経〉の一つとして本書を加えてより、『詩経』の名称が確立したと見られる。
実際に孔子は『詩経』を重視していたことが、『論語』でしばしば言及される。
『詩経』の成立をめぐっては二説ある。
- 孔子刪詩説 - 孔子が、当時伝わっていた三千余篇の歌謡から305篇を選んで教科書・教養書として編纂したという、『史記』孔子世家に見える説。
- 王官采詩説 - 周代、民間の歌謡を採集して民衆の考えや願望を知り、政治の役に立てることを任務とする「采詩の官」という役人たちが採集・選定して作ったとする説(『礼記』『漢書』)。
春秋から戦国にかけて『詩経』が伝承されるにつれ、内容にいくつかの系統が生じた。
前漢の初めには『毛詩』『韓詩』『魯詩』『斉詩』など数種の系統があったが、前漢末あたりから『毛詩』以外の系統は忘れられ、今日伝わる『詩経』は『毛詩』のみである。
『毛詩』は漢初の注釈者である毛享・毛萇によって伝えられたもの。
毛享・毛萇の注釈書(『毛詩古訓伝』略して『毛伝』)では、『詩経』歌謡は歴史故事と結びつけて解釈されており、故事と合わせて理解することで、より大きな感動が深められる。
四字熟語
今日しばしば目にする四字熟語が『詩経』から出ている。
元号
『詩経』は東洋の古典として、日本の元号の典拠としても採用されている。
永観(平安時代、円融天皇の時代)※実際の典拠は不詳とされる
万寿(平安時代、後一条天皇の時代)
永久(平安時代、鳥羽天皇の時代)※実際の典拠は不詳とされる
寿永(平安時代、安徳天皇の時代)
元亀(戦国時代、正親町天皇の時代)