概要
中国南宋代の徽州婺源(江西省婺源県)の人。諱を熹、晦庵・仲晦などと字した。9歳の時に『孟子』を読み、病床の父から『論語』を教わった。
紹興18年(西暦1148年)に19歳で進士に挙げられ、同安県(福建省)主簿となったが4年で退職し、研究生活を送った。政治にも関わったが、朝廷内の人事などに巻き込まれ、最後はすべての官職を剥奪される。
また偽学と誹謗されてすべての著書が発禁処分にされるなど艱難のなかに生涯を閉じた。
彼が興した朱子学は、歴代の中国王朝をはじめとする東アジア諸国に良くも悪くも絶大な影響を与えた。
日本への影響
江戸幕府は徳川家康の林羅山登用に始まり、朱子学を中心とした儒学政策をとった。その風潮は徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達した。
ただし、「古文辞学」を主張した荻生徂徠をはじめ朱子学への批判者も多く、江戸時代の儒学が朱子学一色になったわけではない。当初は朱子学を信奉したが、後に「古義学」を提唱し反朱子学に転じた伊藤仁斎は、朱子学の肝の一つである「人は生まれながらにして身分の差がある(だから偉い人には従え)」といった名分論に異議を呈し、「禅や老子からの引用や、論語の拡大解釈が圧倒的に多くて、本来の儒学と別物だよね?」という主旨の批判をしている。
松平定信は、1790年に寛政異学の禁を発し、湯島聖堂で古文辞学や古学、陽明学など朱子学以外の学問を教えることを禁じたが、当の定信は著書の中で朱子学を盲信することを戒めていたりする。
名分を重んじる朱子学の考えは、純粋朱子学を奉じた元田永孚が起草した『幼学綱要』や『教育勅語』などを通して、明治以降の近代日本にも影響を残した。