封神演義の老子は太上老君参照
概要
本名は李耳(リ・アー)、字は耼(タン)。「老子」は本来、権威ある年長者への尊称である。
『史記』によれば紀元前6世紀の人物で姓名は李耳、字は「耼」。楚の出身で周宗室に仕え、孔子が礼を学ぶべく訪問したこともあるという。後に周の衰退をみて退去し、国境の役人に請われて『老子道徳経』上下巻を書いたが、これが後世に伝わったという。同じく老荘思想の古典『荘子』にも登場して高く評価されている思想家であり、また唐の帝室を始めとした李姓の人々が多く祖先として尊重しているという。しかし、学術的にはその経歴どころか実在すら不明であり、『史記』自体が老子の記述を半信半疑な扱いで記載している。
あらゆることを「自然な流れに任せる」ことを旨とする【老荘思想】の開祖であり、のちに道教が興隆した際には開祖として崇められ、『太上老君』という尊称とともに神格化されることとなった。その影響か、後世の中国伝奇小説で伝説の仙人として『太上老君』の名前で登場している。
『無為』の思想
老荘思想の根幹を支える教え。
『何も為さない』という意味で、余計な手を加えず自然に任せることを意味する。
よく誤解されるが「ほったらかし」にするのとは違うので注意。
どちらかと言えば、
在りのままに捉え
在りのままに考え
在りのままを受け入れる
……と、いう自然主義的な考えに近いだろう。
逆に私利私欲で物事を強引に推し進めたり、大義名分を盾に物事を抑え込むような人為的な作用を嫌う思想でもある。
とはいえ、老子の思想は大変奥深く、幅広い。
しかも老子の言う「自然」は単なるネイチャーではなく「自(みずか)ら然り、自(おの)ずから然る」という「必然の法則」に近いものであり、
「無為」も「為す無くして、為さざる無し(余計なことはせず、やるべきことはすべてやる)」という消極性と積極性双方を兼ね備えた言葉である。
現代にある言葉にすれば「人事を尽くして天命を待つ」が意味として近いか。己に出来得る使命を全うし、最後は因果応報に身を預ける。この言葉は11世紀の儒学者の格言だが、その理念は老荘にも儒学にも相通じるものがある。
この老子の思想を吸収・発展した思想が「世界の真理に沿った法律を定め、それに従うことだけをなし、それ以外の余計な仕業を禁じる」という法家・法治主義の思想である。
(法家そのものは太公望や管仲を祖とするため、老子・道家よりも歴史は古い)
始皇帝の師であり、法家の集大成と名高い韓非子は、その著作「韓非子」の中に老子の文章を引用して法治思想を整理している。
また老子の思想と、太公望の兵書(実際の執筆時期は戦国時代というのが通説)とされる六韜にも共通点が見られる。