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概要

古代中国春秋時代)の思想家政治家。(紀元前551年~紀元前479年)
諱は丘。「孔子」は後世の尊称である。孔夫子と言う尊称の方がの頃ヨーロッパへ広まり、「ST・CONFUCIUS」(セント・コンフキウスやコンフューシャスと読む)と言われた。

現在の山東省南部にあった魯国に生まれる。『史記』によると、顔氏の女性と野合(婚外性交渉)してもうけた子であり、尼丘という山で祈りを捧げた後に誕生した。母は尼山の祠で活動する巫女・顔徴在であったという。当時の巫は雨乞いや葬式を担当しており、祭器を用いた作法に触れていた息子の将来に繋がっていくことになる。『論語』で彼語る所によると身分は低かったが、それ故にいろいろできるようになったという苦労人である。
幼くして父を失い、17で母を失いながら独学で礼法について学んでいった。
なお師匠がこういう風で、他の弟子も、技術を持ってからこの夫子へ師事するため、徳だけでなく学に通じた者が揃っていた。

同国に仕官し昇進したが政争により一時亡命し当時の中国の西から東を行ったり来たりした。帰国後は弟子の教育と古典研究・整理に専念した。
魯国の統治者・襄公の後を継いだ昭公は、臣下である公族の立場でありながら国の実権を握ろうとする三桓氏を攻め落とそうとするが失敗、異国である斉に追放された。『論語』には三桓氏を批難する言葉が残されている。
孔子も昭公の後を追って斉に亡命、その道筋の中で悪政を逃れて虎の生息地で暮らすも家族を喰い殺された女性と相対する事になる。
魯国では君主が空位の時代が続いており、斉国のほうで士官しようとしたが、同国宰相の晏嬰に阻まれ帰国する事になる。
魯国で士官したが短期に終わり、多くの弟子を迎え、育てる活動を行うようになる。
その後、かつての主君を追放した三桓氏が一、季孫氏の頭首に仕えていた陽虎が魯国の実権を得、彼は孔子を迎えようとしたが実現せず、三桓氏の長たちを排除しようとして失敗し彼も追放される。
クーデターを成功させた陽虎の家臣になりかけた孔子は50歳にて自身もクーデターに関わる事になるが失敗、再度、斉に追放され、諸国を転々とすることになる。

その言行が「論語」にまとめられ、当時の原始的な宗教・哲学を独自に体系化し儒教を創始、諸子百家のうちの「儒家」のもととなる。儒教は仁(愛)と礼(伝統)を重視し、当時としては洗練された教えだったが、仁の為に理想主義、礼の為に懐古主義となりがちな面が有り、熱心な儒教思想に基づいた王莽の治世では清貧の名のもと貨幣制度を破壊され、非常に強い権威主義が簡便に済ませればいい公文書もやたらと回りくどく仰々しい物が使用されるようになった。為政者の受けは極端に悪かったが、前漢時代(ジョセフ・ニーダムは、この辺りの人民がクロスボウで武装する為に懐柔する対策を取った説をとる)、礼法による祭事の円滑化や伝統思想を忠誠と結び付けたりと、上手い具合に国の公式イデオロギーとなり、以後中国思想の中核をなすこととなった。
孔子の死後に彼の旧宅が霊廟として扱われるようになった。南北朝時代に直接的な墓ではない「孔子廟」が建てられるようになり、唐の時代に主要都市に孔子廟が配置され、更に宮中に国家的な祭祀が執り行われる特別な孔子廟が建立され、孔子と代表的な十人の弟子(孔門十哲)が合祀された。さらに時代が下ると「文」と対なる「武」側の偉人として太公望、さらに中国史上の軍事関係者の中から孔門十哲に倣って選出された十人が祀られるようになる。宮中の文武の廟は歴代王朝の国家施設として重要な祭祀の場となった。
太公望の「武」の頂点の座はのちに関羽関聖帝君)に取って代わられる事になるが、孔子は「文」の頂点として不動の地位を占め続けている。

子孫は歴代中国王朝からも厚遇され、21世紀の現在まで連綿と続いている。孔子の末裔の一族(孔家)の総数は200万人に達し、世界で最も長く続く家系である。

なお、実は身長9尺5寸、約216㎝の超巨漢だったと伝わっており、「長人」というあだ名もあったらしい。

余談

1995年、白亜紀の地層から発見された(羽毛恐竜ではなく完全な鳥)に「聖賢孔子鳥コンシフオルニス)」の名が与えられたことでも有名。

食生活

食事には非常にこだわりがあった。玄米より白米を食べ、生肉は膾、腐臭がし酸っぱい味がする肉には箸をつけず丁寧に調理されたもの(腕と食材への知識が確かな料理人の証)だけを食べた。
端的に言うと消化器官と衛生面に気を使っていたことになる。これは、医学薬学が未発達であった孔子の時代、胃腸炎、寄生虫や細菌等で命を落とす者が大変多かったためである。

神格化・神秘化

漢代の「緯書」において孔子の出生に神秘的な由来が付加された。『春秋緯』「春秋演孔図」では、顔徴在は沢のほとりで昼寝をしたさい、夢の中で古代中国における「五帝」のひとり「黒帝」の使者に招かれて、黒帝と会い、この神と交わり孔子を身ごもったのだという。孔子は一種の半神という事になる。
五帝は五行に対応し、「」は黒色で表わされる。前漢時代の末には歴代王朝を五行に当てはめる発想が生まれており、殷王朝は水行に相応するとされていた。『史記』によると孔子は自身を殷人(殷王朝の末裔)と言っている。『論語撰考』では孔子の両親が尼丘山で祈り、その結果黒龍の精の力によって孔子が妊娠される。

「緯書」は儒教経典である「経書」の注釈書であり(「縦糸」を意味する「経」に対し、「横糸」を意味する「緯」というネーミング)、神秘的な側面が強い。光武帝のように熱中した皇帝もいたが、怪しげな書物ともみなされ、ピンポイントでの焚書も行われた。
「春秋演孔図」等の緯書では孔子の身体的特徴として人間離れした異相(神話時代の聖王の表現)でもって描写されており、遙か後代、明代の『聖蹟図』では母の前に現われた麒麟の口から孔子が「水精の子」であると記した託宣の書が吐き出される。そうして生まれた子には四十九の異質な身体的特徴が備わっていた。
ただし図像表現としては、後世に至高の地位に高められた孔子も一般的な人間に近い姿で描かれ、その位の高さは後述のように「皇帝」の装いで表現されている。

図像表現

孔子の絵や像は主に以下の三タイプに分けられる。

  • 行教像
孔子が教えを説いて行く姿を描いたもの。両手を、片方の掌をもう一方の甲に重ねてそのまま胸のあたりにあてる。布をまるめたような簡素なデザインの帽を被る。孔子像の中でも質素な服装である。唐の時代の名画家・呉道玄による作例が後世に至るまでの基準となった。
  • 司寇像
司寇とは古代中国の上級官職の一つで司法や警察、刑罰をつかさどる。孔子は魯の国においてこの役職につき国政にかかわった。両手で笏(閻魔大王聖徳太子の図像で持たされてる板)を掲げ持つ。笏を持たずに冠で官職をあらわすもの、また両方を備える作例も多い。湯島聖堂の大成殿にあるのはこのタイプ。
  • 袞冕像
袞とは皇帝の衣、冕は皇帝の冠(始皇帝が絵でかぶってるもの)を指す。まさに皇帝の装いをした孔子像である。冕には前後に旒というすだれが掛かっており、顔が直接見えないようになっていて、雲の上の存在としての神秘性・権威性が高められている。

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