概要
来歴
用明天皇の第二皇子。本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ・うまやどのおうじ)」、または「厩戸王(うまやどのおおきみ・うまやどおう)」であると考えられている。『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」、『日本書紀』では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされる。他、太子を指していると思われる文献では、「有麻移刀」「馬屋門」「馬屋戸」などがある。
一般的に用いられる聖徳太子の名称は、生前の徳の高さを讃えた諡号(薨去に際しての神道における贈り名)であり、この諡号自体も薨去から84年後に当たる慶雲3年(706)頃に作られた法起寺三重塔の露盤に記された「上宮太子聖徳皇(じょうぐうたいし しょうとくこう)」の銘文でようやく記録として登場するものである。つまり、太子自身は生前に「聖徳」と名乗ったことがない。
敏達天皇3年(574)1月1日、大和国高市郡飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村)の橘寺の地にあった行宮で、用明帝と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、欽明天皇の第3皇女)の間に生まれる。皇族の血筋に加えて、世襲の大臣(おおおみ)として天皇の執政を補佐し欽明帝の妃となった姉妹の父親である蘇我稲目の曾孫でもあり、当時は数少ない崇仏派であった蘇我氏の影響を受けて幼い頃から仏教を学び、卓抜した聡明さは数々の逸話として遺されている。
用明天皇2年(587)7月、世襲の大連(おおむらじ)として天皇の軍務を補佐した物部守屋が用明帝崩御に伴う皇位継承権問題を巡り、かねてより仏教礼拝の賛否を名目に(正確には敏達帝崩御後の皇位継承権問題から)対立する蘇我馬子と完全に敵対した際、馬子が擁立した泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)と共に守屋が擁立した穴穂部皇子(あなほべのみこ、敏達帝及び用明帝の異母弟)を討伐する『丁未の乱(ていびのらん)』に参加してこれを破る。
推古天皇元年(593)4月10日、推古帝の儲君(立太子の礼を執行する勅令)を以って皇太子に就くと共に摂政の任を与えられ、馬子と協力しつつ数々の政治改革を推進する。この時、守屋討伐の際に立てた請願を守って四天王寺を建立し、同時に施薬院(薬局)、療病院(総合病院)、悲田院(弱者救済施設)、敬田院(仏教道場)の4つから成る日本最古の総合福祉施設『四箇院』を併設する。
推古天皇30年(622)2月22日、薨去。享年49。生前の希望に従い、遺骸は河内国石川郡磯長(現・大阪府南河内郡太子町)に設けられた陵墓『聖徳太子磯長廟』(現・叡福寺北古墳)に葬られる。
皇極天皇2年(643)12月30日、上宮家として太子の血統を継承した山背大兄王が蘇我入鹿を中心とする反勢力の強襲の末に逃亡先の斑鳩寺で一族もろとも自害し、これによって太子の血脈は断絶したとされる(ただし、弟のうち当麻皇子と来目皇子の血統は存続した)。
政策
当時の日本は、6世紀末に統一された隋王朝や朝鮮半島諸国(新羅、百済、高句麗、任那)との関係を保ちながら大陸の最新文化を積極的に吸収し、その一方で旧来のヤマト王権体制の改革と新たな中央集権体制の安定が求められた時期であり、特に当時の先進国である大陸諸王朝に対して独立国としての認識を得ることが急務であった。
内政
摂政の任に就いた後、執政に参加する官僚の位階を冠の色(紫:徳、青:仁、赤:礼、黄:信、白:義、黒:智)の6種類、さらに色の濃淡による各位大小の2系統で表し、従来の血統世襲制を廃した官吏位統一制度『冠位十二階』(最高位は濃紫の大徳、最下位は淡黒の小智)を、同時に儒学や仏教の思想を基盤として政務に携わる官僚の道徳を説いた日本最古の法規範『十七条憲法』を制定した。
特に仏教には熱心に取組み、高句麗から渡来した仏僧・恵慈(えじ)に師事して仏教を修め、法隆寺などの大規模な仏教寺院を次々と建立した。太子が仏教を厚く信仰した一例として、仏教諸経典の中でも特に難解な『法華経(ほけきょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の三経典について注釈を加えて著した研究書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があり、言葉としては十七条憲法第二条の序文「篤敬三寶。三寳者仏法僧也。(篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり)」(三つの宝を心から敬いなさい。3つの宝とは悟りを開いた仏、仏が説いた法、法に従う僧である)、国宝『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』に記された晩年の言とされる「世間虚仮唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」(この世の全ては虚ろな仮初の姿であり、唯一の真実は仏の教えである)などがある。
しかし、従来の神道を蔑ろとした訳ではなく、儒教書『礼記』に倣った十七条憲法第一条の序文「以和為貴。無忤為宗。(和を以って貴しと為、忤うこと無きを宗と為)」(調和を尊び、争いを起こさない事が重要である)による和合の精神を宣言し、これを基礎に推古天皇15年(607)に発布した『敬神の詔(けいしんのみことのり)』の書中で「神道(=根本)を幹、仏教(=信仰)を枝、儒教(=礼節)を葉と成す」の思想を明確に表した事で日本における神仏習合の概念を確立した。
外交
海外使節団『遣隋使』の第二回派遣に際して小野妹子を国使に任じ、隋の第2代皇帝であった煬帝に対して「日出処天子到書日没処天子無恙云云(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云云)」(日が昇る国の皇帝が、日が落ちる国の皇帝に書を送る。お変わりは無いか。云々)で始まる国書を送り、対等関係を申入れるという前代未聞の国交交渉を行った。
この国書に対して煬帝が激怒したとされる話は歴史書『隋書』第81巻に当たる列伝第46巻「東夷」のうちの倭国に関する一節に、前述の「日出処~」に続いて「帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞(帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蠻夷の書、無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ、と)」(帝はこれを見て不愉快を覚え、担当の外交官に「今後は野蛮人の無礼な書を二度と聞かせるな」と言った)と残されている。
ここでいう無礼とは書中の「天子」を指し、即ち当時の最先端国家たる隋から見て本来であれば臣下の礼を執って然るべき倭国の王、それも未見の地に住む蛮族の首長が皇帝を意味する天子の尊号を国書という最重要文書の書中で軽々しく用い、その上で対等の立場で文言を述べるという非礼極まりない一件に対して激怒したのが真実であり、太陽出没になぞらえた国の盛衰に激怒したとする通説は類推の域を出ない後世の俗説とされている。
なお、「日出処」「日没処」の文言は般若経の大教典『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の注釈書『大智度論』に記されている「日出処是東方 日没処是西方」に倣ったものとされており、単に日本から見て西方の地にあるために隋を日没処、逆に隋から見て日本が東方の地にあるために日出処と表現したと考えられている。
ただし、この事件に関する日本最古の文献資料『日本書紀』では第22巻「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと=推古帝)」のうちの遣隋使に関する一節に「推古天皇15年(607)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣された(要約)」と簡潔に記され、その後も隋の国書を携えた裴世清と共に帰国した経緯が綴られているだけであり、「日出処~」の国書を煬帝に奉じたとする確実な記録証拠は日本側には残されていない。
どちらにせよ、国書を無礼と取られながらもその後も遣隋使が派遣されるなど、友好な関係が続いたのは事実である。当時倭国(日本)側がどこまで国際情勢を把握していたのかは不明だが、隋は高句麗(朝鮮半島)への遠征に備えており、高句麗より東にある倭国を敵に回すのはあまり得策ではなかったからと考えられている。
逸話
その聡明さと輝かしい功績から数々の逸話が遺されており、中でも10人から一斉に意見を求められても正確に聞き分けて回答する情報処理能力の『豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)』、あたかも目撃したように未来を詳細に予言する予知能力の『兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)』の2つが代表例として挙げられ、特に前者の豊聡耳については厩戸皇子の別称として『古事記』『日本書紀』など多くの古文書に登場する。この逸話が転じて、「一斉に流れる複数の音を聞き分けたり出来る人物」を聖徳太子と表現したりすることがある。
しかし、これらの逸話の大半は太子信仰の発生による神格化が起因しており、前述の超人的能力は後世に造作された伝説としての側面も多々あるため、幕末以降は聖徳太子の虚構性が指摘され続けている。虚構論を唱える学説の中には「聖徳太子は架空の人物である」「蘇我王朝が実在した」などの突飛な内容も含まれているが、法隆寺釈迦三尊像の光背に記された銘文が太子の実在を示すとする信憑性などから、逸話のいくつかは虚構であったかもしれないが、「厩戸皇子」本人が非実在であったという説は学会の少数派に留まっている。
日本が発行する紙幣の肖像画としては歴代最多の採用回数を誇り、戦前から昭和59年までの間に流通した紙幣で7回の採用を記録している。また、その大半が最高額面であったために高額紙幣の代名詞として広く認知されていた。
他方では、浄土真宗開祖である親鸞の夢に何度も現れたとされる伝説が遺されており、その1つに「女犯の夢告(にょぼんのむこく、『御伝鈔』上巻第三段)」がある。大きな苦悩を抱えて独り比叡山を下り、聖徳太子を建立の縁起とする頂法寺本堂(六角堂)に篭もって命懸けの百日願行に挑んだ95日目、高僧に姿を変えた救世観音(=聖徳太子の化性)が親鸞の前に現れて「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(行者宿報にて設い女犯すとも、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間能く荘厳し、臨終に引導して極楽に生ぜしめん)」(行者=親鸞がこれまでの因縁により女性と交わりを持つ破戒に直面した時、私が美しい女性となって交わりを被りましょう。一生の間を気高く立派であるよう助け、臨終には極楽浄土へ生ずるよう引導しましょう)と諭したとされている。この何だかエロい夢が、後に日本最大の宗派を生むこととなる。
太子信仰
仏教普及における功績や上述の逸話から、超自然的な人物と見なされるようになり、彼を信仰の対象とする「太子信仰」が形成された。『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』において救世観音(観世音菩薩の尊称)の化身とする説が確立し、『四天王寺御朱印縁起』では太子が注釈を書いた経典も勝鬘経に登場する勝鬘夫人は過去世であるとされた。インドにおいて勝鬘夫人として産まれた彼はその後中国の南嶽衡山を拠点に活動した禅僧で天台宗開祖智ギの師匠であった慧思禅師(南岳大師)として転生、さらに日本の聖徳太子に生まれ変わったと位置付けられた。
聖徳太子の時代の日本において、仏教の宗派の違いは明確ではなく、様々な法門(修行、信仰の方法)を併学する形であった。そして大陸から宗派が持ち込まれ、また日本で発達する際にも、そうした各宗派で太子信仰が継承されることになる。
真言宗・天台宗・禅・律宗・浄土教・日蓮宗と日本に存在する伝統宗派の大半において太子信仰が存在する。基本的に宗祖・高僧以外の人物を祀らない浄土真宗もこれに該当する。
図像表現としては、2歳の時に立上がり東を向いて合掌して「南無仏」と祈りを捧げた姿とされる「南無仏太子」、袈裟を着て柄香炉を持ち父親である用明帝の病気治癒を祈った16歳(14歳とも)の「孝養太子」、35歳と45歳の時に勝鬘経について講義する「講讃太子(講讃像)」などがある。
創作における聖徳太子
創作界隈で特に有名なものは、『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和』に登場する聖徳太子(他には『日出処の天子』、『爆撃聖徳太子』、『ねこねこ日本史』、日本史学習漫画など)。
増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和
詳細は聖徳太子(ギャグマンガ日和)を参照の事。
日出処の天子
先項で述べた超人的側面を基に構築された人物像を取り、幼くして血縁者はおろか有能な臣下にまで一目置かれるほどの叡智を垣間見せる賢者、そしてその非凡な才覚によって誰からも怖れ疎まれる愛に飢えた孤独な人間として描かれている。
太子に畏敬の念を払いつつ補佐に奮闘する蘇我毛人(蘇我蝦夷)の働きも虚しく、決して晴れる事の無い苦悩に苛まれ続け、やがてこの苦悩が周囲の人々を様々な騒動に巻き込む事となる。
爆撃聖徳太子
自身を「イエス・キリストの生まれ変わりである」と称し、物語の主軸となる「世界中の国家が畏怖する隋との全面戦争」に持ち込んだ張本人。
豊聡耳の影響で常に頭の中を駆け巡る無数の声によって半ば精神を病んでいる一方、それを逆手に取って秘密の暴露を恐れる人々を意のままに操り、誰がどう考えても圧倒的不利にある倭国の戦力を数々の奇策・謀略で補う抜群の知能と破綻した思考を併せ持つ破滅的な異能者として描かれ、『ギャグマンガ日和』とは全く違う方向性で蘇因高(そいんこう)こと妹子を散々悩ませる。
世界忍者戦ジライヤ(メタルヒーローシリーズ)
巨大武神像『磁雷神(じらいしん)』を建造した人物とされている。しかし、刀や甲冑などの成立期が西暦1000年前後とされる日本において、飛鳥時代にどの様な経緯で鎧武者を模した巨大ロボットを建造出来たのかは極めて不可解である(戦隊ヒーローに見られる巨大ロボットの建造技術自体が現代の科学的見地からしても不可能であるため)。
この矛盾に対し、一部ファンの間では「兼知未然による未来知識の取得」を仮説の1つとして示す事で、聖徳太子と磁雷神の関連性を物語に沿った形で収束している。
その正体は、全高20mの埴輪を着用している体長20mの宇宙生命体。
東方神霊廟(同人ゲーム『東方Project』第13弾)
表向きのラスボスであり、仏教ではなく道教の秘術を修めた上で1400年の時を経て蘇生した尸解仙の身にありながら神仙(=天仙)に等しい格と力を併せ持つ稀有の仙道士『豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)』として登場する。
Fate/Prototype蒼銀のフラグメンツ
直接的な登場という訳ではないが、存在が仄めかされている。高度な聴力に関する逸話は「同時知覚共有」という能力に由来する様である。
情報膨大のため、詳細は上記リンク先を参照の事。
ねこねこ日本史
詳細は聖徳太子(ねこねこ日本史)を参照の事。
関連イラスト
- 史実に基づく聖徳太子像
- 『日出処の天子』の聖徳太子像
- 『爆撃聖徳太子』の聖徳太子像
- 豊聡耳神子
- 巨大武神像『磁雷神』
- 色々な作品の聖徳太子のごちゃ混ぜ