古墳時代
蘇我氏の始祖は武内宿禰の子蘇我石川から始まる。蘇我氏は大和朝廷では財政管理・外交を司っており渡来人との関わりが深かった。蘇我氏が力を上げていったのが欽明天皇朝の蘇我稲目である。大臣の肩書きを持った稲目は娘堅塩媛と小姉君を天皇の妃とし、堅塩媛は用明・推古天皇、小姉君は崇峻天皇の生母となった。稲目は仏教公伝の際には崇仏派であり廃仏派の大連物部尾輿と対立した。稲目の死後、子の馬子が大臣を引き継ぎ、仏教論争で物部守屋と対立した。
飛鳥時代(乙巳の変まで)
馬子は朝廷で権力を握り、孫の入鹿の代まで政務を牛耳る。馬子は推古天皇を擁立、厩戸皇子(聖徳太子)と共に政務を行いさらに飛鳥寺を建立した。馬子の死後に子の蝦夷が引き継ぎ推古天皇崩御後に敏達天皇の孫田村皇子を擁立(舒明天皇)、皇極天皇朝の頃に蝦夷の子入鹿は山背大兄王を滅ぼした。後に乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足などの反蘇我氏によって入鹿・蝦夷は滅ぼされ蘇我氏本家は滅亡した。
蘇我氏は稲目以降天皇や皇族の妃となり外戚関係を築いていた。
倉山田石川麻呂の娘
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