乙巳の変
飛鳥時代、聖徳太子と蘇我馬子により国作りがされていたが、太子死後は太子の一族の上宮王家と蘇我蝦夷(馬子の子)率いる蘇我氏との対立が表面化。皇位継承者で上宮王家は聖徳太子の皇子・山背大兄王を、蘇我氏が34代天皇・舒明天皇の皇子・古人大兄皇子を擁立し、さらに両者は対立。643年、蝦夷の子・蘇我入鹿は上宮王家の斑鳩宮を襲撃し、山背大兄王は自決。太子の血を引く上宮王家は滅亡した。
35代天皇・皇極天皇(舒明帝の后)の下、蝦夷と入鹿の親子は政治主導権を握って専横が目立つようになり、邸宅を山城のように軍備も強化し、皇室に迫る勢いに周囲からの反感は増していた。
この情勢に中臣鎌足(藤原鎌足)は皇極帝の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)と協力し、645年に飛鳥板蓋宮の大極殿にて入鹿を暗殺。蝦夷も自ら邸宅に火を放ち自害。蘇我宗家は滅亡した。このクーデターは「乙巳の変」と呼ばれ、大化の改新と一緒にされることが多い。
改新の詔
事件直後に皇極帝の同母弟・軽皇子が即位(孝徳天皇)、その下で中大兄皇子は皇太子となり、鎌足とともに新体制を構築した。飛鳥から難波(大阪)へ遷都し、646年に「改新の詔」を発表した。主に四か条を基本とし、豪族が私有していた土地や領民を天皇のものとして公有する「公地公民制」、地方の令制を整備しなおした「国郡制度」、戸籍と計帳を作成して公地を公民に貸与する「班田収受法」、税制改革の「租・庸・調」である。
その他にも、陵墓作成の規制、男女差や交通整備などの習俗改革、役職の世襲禁止、八省百官の制定、冠位十二階から二十六階への改正などもされた。(この間、皇位は孝徳帝から皇極帝の重祚(斉明天皇)へと続き、天智天皇へと継承された)
新体制後
しかし、新体制は順調とはいかず、東北地方を治めていた蝦夷(えみし)の抵抗が続き、悪化した朝鮮情勢に介入して唐と新羅に攻められ滅亡した百済を救援するも、663年、白村江の戦いで大敗。
天智帝は唐からの脅威に備えるため、九州から中国地方にかけて朝鮮式山城を築いて防人を配置、内政面の重視に切り替えて新たな戸籍「庚午年籍」を設置し、近江令を発布。
672年に天智帝が崩御すると、帝の弟・大海人皇子と帝の皇子・大友皇子(弘文天皇)により皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子は大友皇子を倒して(壬申の乱)即位(天武天皇)。より強力な中央集権的な律令体制が構築された。
評価と異説
「大化の改新」が歴史的価値で大きく評価されたのは尊皇思想が高まった幕末の頃とかなりの後世で、近年では645年から650年までとは限らず、孝徳朝・天智朝・天武朝・持統朝の頃の一連の改革も含める説が根強い。
一方で改新はなかったとする疑問視も多い。改新は『日本書紀』で最初に記されたが、改新に関連した記事の多くが時期でズレが見られ、改新関連の新法と旧法が並列する矛盾も多く、改新以後にも同様の改革がされていた可能性が大きい。
このため、「大化の改新」の実質的な改革は650年以後にされた、あるいは650年以後にも続いた改革を645年の改新に重ねてまとめた形に『日本書紀』で編纂されたとする説がある。また、藤原不比等などの後世の藤原氏が先祖の功績を大きく評価するためにしたと思われる。
教科書等では近年の研究を反映して、645又は646年とされている。