概要
渡来系氏族の東漢氏の生まれで、姓は直。東漢直駒とも。前漢高祖皇帝(劉邦)・後漢光武帝(劉秀)・後漢霊帝(劉宏)の流れを組む阿知使主の子孫を称した。
東漢氏の嫡流である坂上氏の氏祖・坂上志努の子の坂上駒子と同一とされる。
生涯
竹林寺の別当某が作成した保延5年(1139年)11月17日付け譲状案に、崇峻天皇4年(591年)に坂上駒子が呉原寺を創建したと記してある。
唐に留学して玄奘三蔵を師として修行し、宇治川にかかる宇治橋を建立したことで有名な道昭が、文武天皇4年(700年)に荼毘に付されたのが栗原寺(呉原寺)とされ、日本で最初の火葬である。
『日本書紀』崇峻天皇五年(592年)十一月条によると、東漢駒は嶋大臣蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を弑した(「祟峻天皇弑逆事件」)。
日本の歴史上、在位中の天皇が臣下により殺害(暗殺)された唯一の事例とされる。
さらに駒は馬子の娘であり、祟峻天皇の嬪であった河上娘を祟峻宮から略奪して自らの妻とした。
このことで暗殺を命じたはずの事件の首謀者である馬子に捕らえられ、河上娘を穢されたことを知った馬子によって駒は殺害されることになる。
馬子によって捕らえられた駒は髪を枝に掛けて木に吊るされ、馬子は自ら弓を引き、罪を数えあげながら駒を矢で射った。
三度目の矢が射られたときに、駒が「私は大臣(馬子)が権力者であると知っていたが、大王(祟峻天皇)が尊いとは知らなかった。それを今さら弁解はしない」と答えた。
これに怒った馬子は剣を抜き、駒の腹を裂いて首を斬ったといわれている。
駒が処刑されたのは、馬子による口封じではないかと考えられている。
天武天皇の時代になると天武天皇は東漢氏を重用するにあたり、東漢氏が推古天皇の御代から近江朝までに「七つの不可」(大罪)を犯した事を挙げて罪を恩している。
この七つの不可のうち、一つは東漢駒による祟峻天皇弑逆事件と考えられる。
関連項目
坂上田村麻呂 - 駒の子孫の1人