概要
生没:生年不明~朱鳥元年9月9日(686年)
在位:天武天皇2年(673年)~朱鳥元年9月9日(686年)
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の第二皇子で、天智天皇(中大兄皇子)の皇弟。
皇后には後に持統天皇となる鸕野讃良(うのの さらら)がいる。
『日本書紀』の編者として知られる舎人親王は、彼の息子であり第三王子。
兄の天智天皇を補佐するが、天智の没後その子の大友皇子と対立。壬申の乱に勝利して即位した。
日本で最初に天皇を名乗った人物(それ以前は大王と当時呼ばれていた)であり、日本という国号を定めた人物でもあると考えられている。
また飛鳥浄御原宮の造営、日本最古の貨幣である富本銭の鋳造や、八色の姓の制定、日本書紀の編纂を命じるなど、天智・天武・持統の三代によって律令国家の基礎が築かれた。
生涯
斉明6年(660年)9月、日本と親交のあった百済に新羅と唐が連携して侵攻したとの報がもたらされ、百済国王が捕虜となったとの報がもたらされる。
この凶報に斉明天皇は百済救援を決断、皇太子・中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、鸕野讃良皇女らとともに軍勢を率いて博多の磐瀬行宮を経て朝倉橘広庭宮へと入った。
斉明7年(661年)7月24日、斉明天皇が朝倉宮において崩御、朝倉神社の神木を伐採して宮殿建設に用いたことによる雷神の祟りだといわれている。
この間、中大兄皇子は皇位に就くことなく称制のまま、対朝鮮戦略の指揮をとり、百済の王子・豊璋に織冠を授け、百済再興のために多くの軍勢・水軍を次々に派遣したが、天智天皇2年(663年)、ついに白村江において戦端が開かれ、日本軍は唐の大軍に惨敗を喫した(白村江の戦)。
天智3年(664年)、飛鳥京に帰った中大兄皇子は官位制の改正などによる官僚組織の整備、唐・新羅の来寇を恐れて対馬、壱岐、筑紫に烽や防人を設置し、水城を築くなど国防の強化に乗り出し、天智天皇6年(667年)3月には人心一新を図るため、都を大和の飛鳥から近江に遷した。
天智7年(668年)1月、内外の懸案を処理したのか中大兄皇子はようやく即位し(天智天皇)、大海人皇子を皇太弟に定める。
天智7年(668年)10月、内大臣・中臣鎌足が病のため亡くなった。天智天皇は皇太弟・大海人皇子を鎌足邸に遣わして大織冠と「藤原」姓を授けた。跡を継いだ不比等は藤原氏の祖となり、息子たちとともに朝廷に勢力を拡大させていくこととなっていく。
天智10年(671年)、病に伏した天智帝は大海人皇子を呼び皇位継承を促したが、大海人皇子はこれを辞退して出家、吉野に移り、その年のうちに天智帝は崩御した。
天武元年(672年)、大津京(近江朝廷)にあって実権を握る大友皇子(天智天皇の皇子、皇位にあったとの説が有力視され、明治3年(1870年)、弘文天皇と追号された)と吉野にある大海人皇子との対立が先鋭化、大海人皇子は臣下達とともに挙兵を決意、美濃において兵を集めて攻め上り、弘文帝を擁する近江朝廷軍との戦いに勝利した(壬申の乱)。
天武2年(673年)、飛鳥宮で即位し、妃に天智天皇の皇女・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)を迎える。卓越したリーダーシップにより天皇を中心とした強力な統治体制(律令国家)の確立を目指し、天智帝が制定した近江令をさらに整備しようと、新しい法典の制定を宣言、こうして作られたのが「飛鳥浄御原令」であり、外国に示す国号も、それまでの「倭」から「日本」(どちらもやまとと読む)に変更された。またそれまで「大王」と呼ばれていた称号も「天皇」に定まったのもこの頃と言われる。
八色の姓や新冠体制に位階昇進制度の制定、豪族層の官人組織化、土地と人民の公的支配などを進められた。また、大嘗祭を設け、神道の振興を促し仏教を保護し、貨幣の流通を望み(富本銭)、『古事記』『日本書紀』の編纂が進められた。
都造営には最後まで苦慮し、複都制を考え、信濃や難波が候補に上がり、奈良盆地の藤原京の建設を進められたが、完成を見ることなく、朱鳥元年(686年)5月崩御。
天武の没後、有能さを評価された天武帝の長子・高市皇子の母の身分が低いことから、妃の鸕野讃良皇女(持統天皇)が即位。天武の政策の多くが持統に引き継がれることになった。
人物
日本史上、最も権力集中に成功した人物とされる。天武は歴代天皇の中でも最も偉大なカリスマと見る歴史学者も少なくない。
仏教・神道を保護する一方で道教も詳しく、占いにも通じてたとされる。日本書紀では天候を操るなど神懸かり的な力を持つ人物として描かれるが流石に脚色だろう。
万葉集の歌人・額田王(※女性)と親密であったが、兄の天智が彼女を奪ったため兄弟不和になったという説がある。
なぞなぞが趣味で、庶民の芸能も好んで見たと言われる。
動物を保護する政策を打ち出したことでも知られる。狩猟を全面禁止するというほどではなかったが、次第に肉食が憚れるようになり、日本の食文化に大きな影響を与えた。
皇統
・草壁皇子(くさかべのおうじ)
- 妃:大田皇女 - 天智天皇の皇女
・大来皇女(おおくのひめみこ)
・大津皇子(おおつのおうじ)
- 妃:大江皇女 - 天智天皇の皇女
・長皇子(ながのおうじ)
・弓削皇子(ゆげのおうじ)
・舎人親王(とねりしんのう)
- 夫人:氷上娘 - 藤原鎌足の娘
・但馬皇女(たかたのおうじょ)- 高市皇子妃
- 夫人:五百重娘 - 藤原鎌足の娘
・新田部親王(にいたべしんのう)
- 夫人:大蕤娘 - 蘇我赤兄の娘
・穂積皇子(ほづみのおうじ)
・紀皇女(きのおうじょ)
・田形皇女(たかたのおうじょ)
- 嬪:額田王 - 鏡王の娘
- 嬪:尼子娘 - 胸形徳善の娘
・高市皇子(たけちのおうじ)
- 嬪:かじ媛娘 - 宍人大麻呂の娘
・忍壁皇子(おさかべのおうじ)
・磯城皇子(しきのおうじ)
・泊瀬部皇女(はつせべのおうじょ)川島皇子妃
・託基皇女(たきのひめのおうじょ)志貴皇子妃
「天皇となった男系子孫」は男性天皇は淳仁天皇を、女性天皇は称徳天皇(孝謙天皇)を最後に存在せず、称徳天皇の次の天皇である光仁天皇は天武天皇の兄である天智天皇の男系子孫に当り、以後の天皇は全て光仁天皇の男系子孫となる。
この為、「神皇正統記」では天武天皇およびその男系子孫に当る天皇は男性天皇であっても「中継ぎの天皇」「傍系の天皇」(「第○代天皇」には数えられているが、「第○世天皇」には数えられていない)として扱われる。