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持統天皇

じとうてんのう

第41代天皇。飛鳥時代後期の女性天皇であり、第40代天皇・天武天皇の皇后。
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概要編集

生没年 大化元年(645年)~大宝2年(702年)

飛鳥時代後期の天皇。


父は第38代天皇・天智天皇。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。

名を鸕野讃良皇女(うのさららのひめみこ)

後に叔父・大海人皇子の皇后となり、夫亡き後、第41代天皇として即位した。


有能な父と夫を持ち、自らも有能な女帝として権力を振るった。

日本史最初の上皇としても知られる。


生涯編集

斉明天皇3年(657年)、皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)の後嗣を生むことを望まれて、13歳で叔父・大海人皇子の妃となる。

斉明天皇7年(661年)、中大兄皇子らを中心に唐・新羅連合軍の侵攻によって滅亡した百済救済計画が遂行され、斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子らとともに朝倉宮(福岡・博多)に随行するが、天皇は同年朝倉宮で崩御。


天智天皇元年(662年)、皇太子・中大兄皇子は即位することなく現地で指揮を執るが(称制)、白村江の戦いで日本軍は唐・新羅連合軍に大敗、翌天智天皇2年(663年)、大和へと撤退を余儀なくされた。なお、鸕野讃良皇女は天智天皇元年、筑紫の娜大津で草壁皇子を出産している。

天智天皇7年(668年)、近江遷都が行われ、戦後処理にあたっていた中大兄皇子が即位、天智天皇となり、弟・大友皇子が太政大臣に任じられる。大海人皇子は立太子したとされるが、皇位継承を固辞し吉野に出家する。同年、中臣鎌足が死去。

天智天皇10年(671年)、天智天皇が崩御、『日本書紀』には大友皇子が即位したとの記述がないが、『水鏡』や『扶桑略記』には天皇崩御二日後に大友皇子が皇位を継いだとの記述が見られ 、明治3年(1870年)に「弘文天皇」の追号が贈られることとなった。


天武天皇元年(672年)、皇位をめぐって弘文天皇と大海人皇子による戦いが起き、1か月に及ぶ戦いの末、天皇方が敗れて弘文天皇は自害、大海人皇子は即位し天武天皇となり、草壁皇子を皇太子とする(壬申の乱)。


朱鳥元年(686年)9月、天武天皇が崩御、鸕野讃良皇女は称制となり政治を総攬する。

持統3年(689年)、皇太子・草壁皇子が薨去し、翌持統4年(690年)、鸕野讃良皇女は即位、持統天皇となり天武天皇の長子・高市皇子を太政大臣とする。

持統天皇8年(694年)12月、中国の様式を取り入れた藤原宮に遷都。 持統天皇10年(696年)、太政大臣の職にあった高市皇子が薨去、皇族間に意見の相違があり、協議の末、亡き草壁皇子の第二皇子・軽皇子を皇太孫に定める。

持統天皇11年(697年)、天皇は孫の軽皇子に皇位を譲り(第42代・文武天皇)、自らは太上天皇として天皇を後見、大宝2年(702年)、持統天皇は崩御した。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)


人物編集

日本書紀』によれば、落ち着きのある広い度量の持ち主であったとされる。

夫をよく支え、壬申の乱の際には武装蜂起を促し、夫が天武天皇として即位すると政務を補佐した。

聡明な女帝であり、夫の天武の治政を引き継ぎ、飛鳥浄御原宮の造営、古事記・日本書紀の編纂、戸籍制度の充実に注力した。


彼女自身は当初天皇に就くつもりはなく、実の息子である草壁皇子が即位することに執着していた。その執念は息子のライバルである大津皇子を処刑するほどであった。

しかし草壁皇子が夭折したため、今度は孫の軽皇子(後の文武天皇)に期待し、彼が即位するまで天皇位を死守するために自ら天皇になったという。軽皇子が15歳になると持統は譲位するも、経験豊富な持統が政治を支え続けた。これが歴史上最初の上皇である


創作編集

まんが日本史(日本テレビ) では美人で気の強い女性として描かれる。

その生涯から、昔から少女漫画の題材になることもある。


関連タグ編集

女性天皇 女帝 天皇


武則天(則天武后):同年(690年)に即位した中国史上唯一の女帝。

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