概要
飛鳥時代から奈良時代において官僚・政治家として活躍した人物で、皇族であり第40代天皇である天武天皇の第三皇子で、第47代天皇である淳仁天皇の父であり天皇即位後に崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の尊号が贈られた。
奈良時代前期では、天皇と皇族を主体とした政治体制である皇親政治の政権を樹立させた人物の一人であり、勢力から大変重用されていた。
彼を語る上で欠かせないのが、自らが総裁を担当した『日本書紀』の編集であり、養老4年(720年)の5月に完成させ奏上した。
これは現存する日本最初の公式歴史書であり、現在も古代日本の正史としてあり続けている。
系統
- 妃:当麻山背 - 当麻老の娘
・大炊王(おおいのおう、第47代・淳仁天皇)
- 妃:当麻氏
・船王
- 妃:
・三原王
・三島王
・池田王
・守部王
・御浦王
・室女王
逸話
日本最古の学者
舎人親王が祀られている京都府にある『藤森神社』には、彼について書かれた石碑が本殿の前に立っており、
「日本最古の学者 日本書紀編集者 学問の祖神舎人親王御神前」
とある。藤森神社の主祭神は須佐之男命だが、地元の人々は舎人親王をお祀りしていることを誇りにしており、石碑にある通り『日本最古の学者』『学問の祖神』として崇敬されているという。
御祭神
御祭神となっている神社には滋賀県と栃木県にある『雄琴神社』があり、滋賀では大津の領主であった小槻氏が、栃木では鎮守府将軍に命じられた清原武則の子孫が、それぞれ御祖神として舎人親王を祀ったのが始まりだという。
聖徳太子の再来
日本書紀の中では、日本固有の独自信仰である神道や祭祀が重要なものとして取り上げられていると同時に、仏教伝来以降の仏教や寺院に関する記述もある。
これらは古事記には見られないもので、編年体による記述の中に祭祀の話を含め、日本精神の基を示しつつ海外から伝来した仏教を、国柄と矛盾しないように説明するのは、相当な苦労があったと思われる。
奈良県にある『松尾寺』は、舎人親王が日本書紀の完成を祈願して創建されたと伝わっており、彼は仏教も大切に扱い聖徳太子と同様に神仏の調和について深く考えていたのではないかとされている。