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概要編集

生没:718年(養老2年)〜770年8月28日(神護景雲4年8月4日)


父:聖武天皇

母:光明皇后(藤原光明子)

同母弟:基皇子

異母姉:井上内親王

異母弟:安積親王

異母妹:不破内親王。


諱は阿部であり即位前は「阿倍内親王」と名乗っていた。

生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。


日本史上6人目の女帝。道鏡を寵愛していたことで知られる。


略歴編集

弟である基皇子と安積親王が夭折していたため聖武天皇には男子がいなかったこと、正室の光明皇后の長子だったこともあり阿倍内親王は初の女性皇太子として立太子された。

749年に父・聖武天皇の譲位により孝謙天皇として即位。従兄の藤原仲麻呂(母の長兄・藤原武智麻呂の長男)に政務の補佐が任された。


758年、母・光明皇太后の看護を理由に孝謙天皇は信用していた大炊王に譲位し、自身は上皇となった。後に自分も病に伏せるようになるが、このとき看病に当たったのが道鏡である。


上皇は道鏡を次第に寵愛するようになり、これを不信を抱いた淳仁天皇や恵美押勝(仲麻呂)と対立するようになり、遂に押勝は挙兵。


764年、上皇は吉備真備らを派遣して反乱を鎮圧し押勝を殺害。山村王に命じて淳仁天皇から鈴印(朝廷における軍指揮権を示す宝具)を奪い、淳仁天皇を廃して淡路公に封じて流刑した(このため「淡路廃帝」と言われた。淳仁の諡が付いたのは1100年以上経った明治天皇期)。


その後、皇位に復帰(重祚)。後世では称徳天皇と呼ばれる。皇太子を置かず、寵愛していた道鏡を法王に任じて儀礼や仏教政策を任せるようになる。


765年、称徳天皇は佐伯助に命じ、憎んでいた淡路公を暗殺したとされる。また謀反を計画した和気王を捕らえ伊豆へ配流途中に殺害させた。

769年、異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂らを次々と流刑にした。

同年、「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣が報告された。しかし、これが後に虚偽であったことが勅使の和気清麻呂によって発覚。怒った称徳天皇と道鏡はこれを認めず、和気清麻呂を姉の和気広虫ともども配流したうえで、暗殺しようとしたが失敗した。


770年、平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。

称徳天皇の没後、天智天皇の孫で藤原北家藤原永手魚名藤原式家藤原良継百川兄弟(前者は母の次兄房前の次男と五男、後者二人は三兄宇合の次男と八男であるため称徳帝のいとこに当たる)の後押しを受けた白壁王が天皇に即位して光仁天皇となった。

光仁天皇期になり和気姉弟など称徳天皇によって流罪にされた多くの皇族や臣下は赦免され朝廷に復帰した。

一方、道鏡は殺されることはなかったものの下野国に左遷され、2年後にひっそりと死亡した。


称徳天皇は天武天皇の系統であったが、この系統の天皇は称徳天皇が最後となった。

現代の皇室は後継の光仁天皇から続く天智天皇の系統である。光仁天皇の後を桓武天皇が継いだこともあり天武天皇の血統は皇后を通じて僅かに残るのみである。

また異母姉の井上内親王は光仁天皇の即位後に皇后となったが、息子で皇太子だった他戸親王と共に廃されのち不慮の死を遂げたとされる。


人物編集

お飾りの立場が多い歴代女性天皇の中では珍しく政治に積極的な方で、女性の地位向上に尽力し、有能な女性に対し積極的な位階勲などを与えた。


一方で為政者として、その人格には難ありな点が多く、暴君的な一面もある。

孝謙天皇は自分に反抗的な人物に卑しいアダ名をつける趣味があった(彼女は言霊信仰を持っていたため、単なる悪口ではなく明確な害意と敵対の意志)。また、残虐な刑を好み、些細な罪で極刑に処することも多く、多くの皇族に冤罪を被せて流罪にした。


母の光明皇太后が存命の頃は孝謙天皇を説得することが多く、淳仁天皇や藤原仲麻呂らとの関係も取り持った。しかし母が亡くなると、孝謙天皇を諫める者がいなくなったという。


奸臣の道鏡を重用して政治の混乱を招き、最後までその過ちを認めなかった。

道鏡を寵愛した理由に、彼の巨根に惚れたからという俗説が平安時代からあるが、さすがに創作の模様。大きければいいってもんじゃない


また、称徳天皇期の難ありな事績についても、光仁天皇や桓武天皇以降、時代を経るに連れて藤原氏が完全に政権を主導するようになり、平安時代中期には藤原北家内部の政争を制した藤原道長の時代に栄華を極めた。このため道鏡を起用して藤原氏を牽制しようとしていた称徳天皇が後世である程度意図的に貶められたのではないかという可能性も指摘されている。


関連項目編集

女性天皇

武則天…中国史唯一の女帝。孝謙天皇同様に独裁者暴君の側面が語られている。

後三条天皇後醍醐天皇…生前に天皇としての諡号を決めていた共通点がある



????鎌倉時代の説話集「古事談」によると、山芋で作った道具使用中で折れて残り、そこから毒が回って崩御した、という俗説がある。

ただしこの逸話は、本文末尾にあるように摂政関白として栄華を極めた藤原氏サイドによる称徳天皇・道鏡へのネガティブキャンペーンとして創作されたという見方が強い。

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