ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

藤原魚名

ふじわらのうおな

奈良時代の貴族の一人。藤原北家の祖である藤原房前の五男。永手・真楯・清河の弟。
目次 [非表示]

プロフィール編集

生没年:721(養老5)年~783(延暦2)年

最終官位:正ニ位左大臣

異名:川辺大臣


父:藤原房前

母:片野朝臣の娘

同母兄:藤原清河

異母兄:藤原鳥養藤原永手藤原真楯

異母弟:藤原御楯藤原楓麻呂


経歴編集

藤原北家の初代である房前の五男。藤原北家魚名流の祖。


天平宝字3年(759年)に弟の御楯が従四位上参議に叙任され兄の永手・真楯・清河に次いで公卿になったが、魚名は正五位上であり遅れを取った。

魚名が公卿に列せられたのは天平神護2年(766年)に従三位に叙せられた時である。

神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御すると、魚名は兄の永手に式家の良継百川らとともに光仁天皇を擁立した。その後、称徳天皇の側近だった道鏡を追放した。翌宝亀3年(772年)、左大臣だった永手が逝去したため(在唐中の清河は別にして)房前の男子唯一の存命中の公卿となる。宝亀7年(776年)に楓麻呂が逝去し清河も唐で客死したため兄弟で唯一残った魚名は北家の代表となる。

光仁天皇が桓武天皇が譲位してからは正ニ位左大臣となり政権の首班となる。

しかし、桓武天皇から左大臣を解任されてしまい大宰府に流され、長男の鷹取や三男の末茂も連座した。

大宰府へ向かう途中の摂津国で病に倒れる。都にその後召喚されるも死去した。


左大臣の解任理由は桓武天皇が魚名の力を恐れ(桓武帝の方針では魚名の発言力が邪魔だったとも)たとも、桓武帝の側近で良継や百川の甥である藤原種継と不和であり不興を買ったとも、自分の孫娘を桓武天皇に嫁がせようと固執し桓武帝の怒りを買ったためともいわれている。

死去したすぐ後に左大臣を贈り、解任の令を発した紙などを燃やして名誉を回復させた。


子孫編集

次男・鷲取の子孫。編集


三男・末茂の子孫編集

魚名流の嫡流。末裔の藤原家成の長男藤原隆季四条家の祖となる。藤原成親藤原経子も家成の子。


五男・藤成の子孫。編集


このほか多くの著名な子孫がいる


関連項目編集


公卿 藤原氏 左大臣 貴族 武家

関連記事

親記事

藤原氏 ふじわらうじあるいはふじわらし

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました