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藤原利仁

ふじわらのとしひと

日本の平安時代中期の貴族・将軍。芥川龍之介の小説『芋粥』などで知られている。
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プロフィール編集

生誕不詳
没年不詳
官位従四位下、鎮守府将軍
主君醍醐天皇
氏族藤原北家魚名流
父母父:藤原時長、母:秦豊国
藤原叙用

生涯編集

日本平安時代中期の貴族将軍

父は民部卿・藤原時長、母は秦豊国の娘。


『尊卑分脈』によると、上野介、上総介を経て、延喜15年(915年)鎮守府将軍に任じられる。従四位下、左将監。


歴史的な実像は『今昔物語集』巻26-17「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」にみられる。

京の貴族に仕えていた頃、利仁は越前敦賀の裕福な豪族の娘婿だった。ある時、五位の者に芋粥を食べさせようと京から越前まで連れ帰って腹一杯食べさせた話である。越前へ向かう途中で出会った狐を服従させるなど、豪気の人物として描かれる。

この話は芥川龍之介の小説『芋粥』の原話として有名である。


伝承編集

藤原利仁は「利仁将軍」として数々の伝承が残された。


平安時代編集

平安時代末期の『今昔物語集』巻14-45「依調伏法験利仁将軍死語」に伝説化の一端がうかがえる。

文徳天皇の時代、利仁将軍は新羅征伐を命じられたが、これを事前に察知した新羅は、の法全阿闍梨を招いて調伏を行い、利仁将軍は出征の途上、山城摂津の境の山崎で頓死したとある。


鎌倉時代編集

鎌倉時代成立の『平家物語』巻6「廻文」に、木曽義仲の強大さを強調する文脈の中で、上古の偉大な武人の1人として名前が挙がる。

「義仲は成長するにつれ、弓矢や太刀等の使い手として、上古の田村利仁余五将軍致頼保昌・先祖頼光義家朝臣とくらべて遜色ないと、人々は噂した」と書かれた。


さらに金刀比羅本『保元物語』「新院御所各門々固めの事 付けたり 軍評定の事」では、源為朝の強大さを強調する文脈の中に名前が見られる。

「古その名聞し田村・利仁鬼神をせめ、頼光・保昌の魔軍を破りしも、或は勅命をかたどり、或は神力をさきとして、武威の誉を残せり」(原文)と、ここでは蝦夷征討という史実から離れ、鬼神退治の英雄としての物語となっている。

『平家物語』と同じく田村麻呂、頼光、保昌と共に利仁が登場しているが、鎌倉時代には既に「古来の名将武人といえばこの4人」という共通認識があったと思われる。


吾妻鏡』「文治5年(1189年)9月28日の条」でも、田村麻呂と共に蝦夷(エミシ)の賊主を退治する物語が見られる。

平泉藤原泰衡を討伐した源頼朝鎌倉へと帰る途中、田谷窟を通ったときに捕虜から、田村麻呂利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋であると教わった。坂上将軍がこの窟の前に九間四面の精舎を建立して、鞍馬寺を模して多聞天の像を安置し、西光寺と号した」とあり、『吾妻鏡』では史実を無視した伝説が語られている。


南北朝時代編集

南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』に、「本朝の昔をたづぬれば、田村・利仁将門純友・保昌・頼光、樊噌張良は武勇といへども名のみ聞きて目には見ず」、「本朝の武士には、坂上田村丸、これを読み伝へて、あくじの高丸を取り、藤原利仁これを読みて、赤頭の四郎将軍を取る」とある。

田村麻呂、保昌、頼光と並ぶのは鎌倉時代の文献と同様である。

一方で『吾妻鏡』では田村麻呂と利仁が悪路王や赤頭を討伐したとしていたものが、田村麻呂が高丸を、利仁が赤頭四郎を別々に討伐したと変化した。『義経記』での記述が、のちに御伽草子鈴鹿の草子田村の草子)』に影響を与えた。


関連タグ編集

武将 藤原氏 藤原北家 藤原魚名

悪路王 赤頭四郎

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