概要
歴史上で実際にあった出来事のこと。
Pixivでは、その作品に使われているオリジナルではなく実際にあった物語を描かれている作品に使われる。そのため、歴史などを舞台にしているアニメやゲームに多く使われるタグでもある。
そもそも我々は史実を知っているのか
史実という言葉は粗製乱造されて批評に用いられているが、そもそも歴史学的に考えて批評者は史実を知っているのであろうか。実は批評者は史実を知らない、確実に知らないと断言できる。何故ならば、我々は歴史上で実際にあった出来事(=史実)を観察する方法を持たないからだ。観察したければタイムマシンを建造し、希望する時代に移動して史実を観察するしかない。つまりは不可能である。
史実を知る方法
では歴史学者はどうやって史実を知ろうとするのであろうか。観察できない代わりに、何らかの史料を用いて史実を推測する方法がとられる。例えば日本の中世史であれば、公家の日記が最良の史料といわれる。歴史小説、歴史ドラマどころか専門の歴史学研究論文であっても、通常は公家の日記を最有力な史料として執筆するケースが多い。何故ならば、公家の日記は子孫が有職故実を知るための教科書でもあるからだ。公家たちは先祖が残した日記を教科書にして、朝廷の仕組みから仕事の作法、日常生活の知恵に至るまでを学ぶ。日記は読まれることを前提に書かれるのであるから、いい加減なことは書けないのだ。これに比べると、武家側の残された資料といえば、物語や伝承など、多くは口頭で伝えられエンタメとして演じられる武勇伝が多くどうしても正確さを欠くケースが多くなる。
では公家の日記に載っていれば史実なのであろうか。それも疑わしい。いかに正確性を求められるとはいえ、例えば政敵の公家についての記述まで公平中立に記述されているか、保証はない。また、迷信深く、神仏や妖怪変化の働きによって現実の出来事を説明する公家の記述を鵜呑みにすれば、当時の京都の街は百鬼夜行が争って人間を操る魔界と化してしまう。そこで、公家の日記であろうがどんな史料であろうが、関連する史料を出来るだけ広く集め詳しく検討することで、可能な限り中立的で正確な史実を推定することが試みられる。これが史料批判である。例えば、3つの史料のうち、二つが正確に出来事の詳細が一致して記述され、一つだけが矛盾した記述となっているならば、その矛盾した記述は疑わしくなる。二つの史料のうち、片方が現場で見聞きした記述で、もう片方が伝聞で書かれた記述であれば、伝聞の方は疑わしくなる。そもそも根拠としている史料が後世の偽造ではないかも確認が必要だ。
史実とは何か
このように、史実とは、あくまでも歴史家によって推定された事実にすぎないのである。そして断片的な史実であっても、その入手には歴史家たちによる大変な労力と知的考察が繰り返されて得られたものである。それゆえ、史実という言葉を乱用する前に、自分なりに調べてみると、より建設的な議論ができるかもしれない。