藤原純友
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ふじわらのすみとも
平安中期に瀬戸内海海賊を率いて挙兵した貴族。
寛平5年(893年)?~天慶4年6月20日(941年7月17日)
藤原氏の宗家である北家出身だが、父が早死にしたため出世を望まず、伊予掾となって従兄弟の伊予守に従い伊予(愛媛)に向かい、現地の海賊鎮圧に当たって活躍した。
しかし、派遣期間が過ぎても帰京せず現地に留まり、承平6年(936年)頃には現地海賊達を率い海賊頭領におさまり、関東で平将門が挙兵したのとほぼ同時期に挙兵。このため、両方を合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれる。
勢力は近畿から九州の大宰府までの瀬戸内海全域を荒らし回って各地の役所を襲撃し略奪。朝廷は東西の挙兵に戦々恐々とし、純友に官位を与えようとしたが失敗。
純友追討として派遣された追捕使の小野好古(小野篁の孫、小野道風の兄)と源経基(清和源氏の祖)の攻撃を受けて伊予を追われ、天慶4年(941年)に博多湾の戦いで純友勢は壊滅し、伊予に戻った純友は警固使の橘遠保に捕らえられ獄中死した。
2ヶ月で平定された将門の乱に比べて、純友の場合は2年に及んだ。将門は成り行きで国に叛いたのに対し、純友は当初から反乱を目的に挙兵した。
また両者がほぼ同時に挙兵したことから両者は事前に共謀していたのではという説もある。
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