ラノベ、アニメ等の登場人物としては各記事を参照
名前の読み方は「しょうし」とも。
史実
988年 - 1074年10月25日(永延2年 - 承保元年10月3日)
母は源倫子。倫子の教育もあり、幼い頃より利発で、分別のある思慮深い性格だった。
12歳で8歳年上の一条天皇に入内する。
当初、一条天皇の后は中宮藤原定子(のち皇后宮)をはじめ、女御元子、尊子、義子がおり、ライバルが多い中、幼くして入内した。彰子自身の利発な性格で一条天皇からは気に入られ、寵愛された。
藤原定子が若くして没した後、彼女の忘れ形見である敦康親王を一条天皇の命により養育した。これは藤原行成の勧めた措置だった。
しかし、彰子に敦成親王(後一条天皇)が誕生すると、藤原行成が敦康親王は高階家の家系であり、これはよくない事だと一条天皇に働きかけた。彰子は自分の産んだ子よりも兄である敦康親王が先に即位するべきであると考えてこれに反対した。しかし、道長・行成の圧迫を受けた天皇は彰子が生んだ敦成親王を後継ぎと定めて亡くなったため、彰子は2人を大いに恨んだという(ただし、行成の本心は敦康親王が後継ぎに立てられた場合、それを不満に思う道長によって親王が陥れられる危険性を感じたためだとする説もある)。
一条天皇との仲は大変良好で、元子など寵愛を受けている女御達がいるにもかかわらず、ある時期から一条天皇より一途に寵愛される。後、後一条天皇と後朱雀天皇をもうける。二人の天皇の生母であり、後年は女院号を賜り、上東門院と称された。一条天皇崩御後も彼を想い尊敬した。86歳の長寿であり、後朱雀天皇の皇子二人(後冷泉天皇と後三条天皇)の即位を見届けたばかりか、後朱雀天皇の孫である白河天皇の即位まで存命していた。
一条天皇に最期まで寄り添い、彼の辞世の句を彰子が聞き書き留めた。
彼女の中宮時代は『栄花物語』で「輝く藤壺」と表現されている。紫式部、和泉式部、伊勢大輔、赤染衛門など多くの女流歌人の女房たちが仕え、華麗な文芸サロンを形成していた。皇太后時代には、紫式部の娘大弐三位、和泉式部の娘小式部内侍のほか、清少納言の娘小馬命婦が仕えている。