母と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕していたため、その母と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。
母同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの公達との交際で知られる。
教通との間には静円、範永との間には娘をもうけ、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。
この際母の和泉式部が詠んだ歌は、哀傷歌の傑作として有名である。
小式部内侍の逸話は、「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。
また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。
のちには御伽草子『小式部』などもできた。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
大江山を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません
「小倉百人一首」に採られているこの歌は、当時は小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったほど名声がなかったころの歌である。
四条中納言(藤原定頼)は、小式部内侍が歌合の歌人に選ばれた際、「丹後にいる母の知恵を借りることができたか」などとからかったのだが、「いくの」「ふみ」の巧みな掛詞、「道」の縁語を使用した当意即妙の受け答えで返されてしまい、狼狽のあまりに歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀で習慣であったにもかかわらず、返歌も出来ずに立ち去ってしまったという。
このエピソードが高評価され、以降、小式部内侍の歌人としての名声を挙げたのである。