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生涯編集

生没年不詳。平安時代中期の作家歌人。日本最古の長編小説とされる『源氏物語』の作者。父は当時の大学者であり歌人でもある藤原為時一条天皇の中宮藤原彰子に仕えた。


紫式部は女房名であり、本名は藤原香子であったとする説がよく知られているが確実ではない。ちなみに、紫式部を主人公とした2024年の大河ドラマ光る君へ』では“まひろ”という名前になっている。

「紫式部」の呼び名は、「式部」が彼女の父(または兄)が式部省(現代でいうところの人事院に相当するお役所)に仕える官僚であったことに由来し、「紫」については当時の女房名としては類例のないネーミングなので諸説あるが、最もよく知られているのは『源氏物語』の別称『紫のゆかり』に由来するというものである。つまり、「紫の上が出てくるお話を書いた、式部省のお役人の家柄の女性」という意味になる。当初は藤原家出身ということで「藤式部(とうしきぶ)」という女房名であったようだ。


父が漢学を教えていた花山天皇藤原兼家とその子息たちにより退位させられ、しばらく出世には恵まれなかったため、若い頃は不遇な時代を過ごす。


しかし、父為時は長く具平親王の家司として仕え、おじの為頼は、具平親王や藤原公任らとも強い友情関係で結ばれていた。すると、具平親王や公任は、若いころの紫式部を知っていたはずで、深いかかわりが想像されてくる。

紫式部は父に伴われて具平親王邸に出入りし、漢籍とは異なる多様な知識を吸収し、物語にも目覚めたのではないかという説もある。


また、具平親王が紫式部の初恋の人、または恋仲だったのではという説もある(なぜなら、後に藤原道長息子頼通の結婚について紫式部は相談されるが、その候補が村上天皇第七皇子の具平親王の姫君隆姫だった。道長は「そなたの心よせある人とおぼして」(『紫式部日記』)と、紫式部が具平親王と特別な関係にあるのを前提にして依頼したからである)。


聡明で漢学に明るかったが、当時は女性が学問(特に漢文)に長けている事は素直に称賛されるような環境ではなく、辛い思いもさせられ、人前で漢字の1(一)さえ書く事を控えた。


長徳4(998)年ごろ、山城守・藤原宣孝と結婚する。宣孝は恋多き男で知られ、紫式部とは親子ほども年の差があり、女性関係で苦労したようだ。

宣孝との間には一人娘の藤原賢子(のちの大弐三位)を儲けるが、まもなく宣孝は世を去る。この時の紫式部の心境は「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」の歌に詠まれた。

このころから『源氏物語』を書きはじめる説もあるが、当時紙が貴重品であったことから、最初の読者は具平親王で紫式部に出仕を勧めた説、源倫子に仕えていた説、道長に依頼された説などある。


寛弘2〜3(1006〜1007)年ごろに中宮・彰子の女房として宮仕えを始めた。

ただし、式部と言う名が父・為時に由来するとすれば、長徳2(996)年に為時が越前守に任命される前に付けられたとも考えられ(同年以降に仕えたならば「越前」にちなんだ女房名になるとする考えから)、早い時期(結婚前)に彰子の両親である藤原道長もしくは源倫子に仕えていた時期があるのではないかと推測する研究者もいる。


宮仕中に道長に具平親王の事を強く想っていますね等言われ、紫式部は物思いに耽るようになり、具平親王をずっと想っていたのではないかという意見もある。


宮仕えを退いた後の彼女の足取りは明らかではないが、『源氏物語』作者としての評判が高く、藤原道長のような有力な庇護者がおり、娘の大弐三位が親仁親王(のちの後冷泉天皇乳母、従三位典侍などとして出世を遂げたことから、平穏な晩年を送ったのではないかと推測されている。


こぼれ話編集

「紫式部日記」では宮仕えの先輩である赤染衛門のことを尊敬し褒めて書いていたり、後輩の和泉式部に関しては私生活には問題あるが、和歌の才能は素晴らしいと少々皮肉めいたことを書いている。清少納言の事を歓迎しない記述があることから、清少納言とライバル関係にあったという風評があるが、実際は紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が退職した何年も後であり、二人は顔を合わせたことがないと思われ、年齢も4から8ほど紫式部が年下という見方が多い。


「生涯」の項にあるとおり、女性が漢籍などの知識を身に着けることは普通ではないと思われていた時代の人物であり、一条天皇が源氏物語を人に読んでお聞きになっている時「日本書紀を良く読んでいる、この人は本当に学識がある」と称賛した。それを聞いた他の女房が何の根拠もなく「紫式部は学識を鼻にかけている」と殿上人に言いふらした。そのせいで「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね、日本書紀の女官の意)」とあだ名をつけられ「実家にいたころは漢字の『一』も書けないふりをしていたのに」と呆れている。

中宮彰子はこっそり漢詩を紫式部から習っていたが、父道長も母倫子も知っていたというほのぼのエピソードが日記にある。

紫式部日記で中宮彰子の事を「辛い世の慰めにこのような人を探すだしてでもお仕えすべき」と称賛している。


日記には道長とのやりとりがあり「あなたを見かけた人は口説かずにはいられないでしょう」という和歌に対し、紫式部は「誰にもなびいたことなどないのに、心外な事ですわ」と返している。


藤原公任とは、具平親王サロン等で会っている可能性があり、宴での「失礼ですが、このあたりに若紫はいらっしゃいませんか?」という公任の声かけを無視できるだけの間柄だったかもしれない。


具平親王は当代の有職故実家として知られ、和歌、漢詩に限らず、香道、音楽、医学、仏道などの諸道にも通じた博学の士として世に尊崇された人で「六条の宮」と称され、源氏物語のモデルの1人と言われている。


ちなみに具平親王と紫式部は血縁関係にあるだけではなく、父為時は長く具平親王の家司として仕え、おじの為頼は、具平親王や藤原公任らとも強い友情関係で結ばれていた。そのため具平親王や公任は、若いころの紫式部を知っていたはずで、深いかかわりが想像される。


娘の大弐三位も歌人として知られる。母について若いころから宮廷に出入りしていたが、明るく屈託のない人柄で多くの公達に愛され、貴族の女性として位人臣を極める幸福な一生を送った。彼女を通じてその血筋は高階氏に続き、藤原摂関家平家平重盛以降の子孫)、皇室とも関わることとなる。



モデルにした登場人物が出る作品編集


現代の商業誌ではあからさまに性悪な人物として描かれるものもあり「うた恋」など)、その場合清少納言が美化して描かれている。


関連タグ編集

平安時代 歌人

和歌 百人一首

あさきゆめみし

光る君へ - 紫式部が主人公の2024年NHK大河ドラマ吉高由里子が紫式部を演じる。

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