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曖昧さ回避

  1. 歴史上の人物、平氏の棟梁・平重盛(本記事で解説する)
  2. 映画『ジャンゴ』、スキヤキ・ウェスタンの登場人物。


史実での平重盛

生没年 保延五年(1139年)~治承三年(1179年)

平清盛の長男。清盛の最初の妻である高階基章の娘(名は不詳)との長子。

極官は左近衛大将、正二位内大臣。

六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。


出自

重盛の母の実家は紫式部大弐三位の血を引いているとは言え家格はさほど高いとは言えず、父に比べて母の身分の低さは謎である。このころの清盛は父・忠盛が海賊退治を行った恩賞として従四位下中務大輔(朝廷の総務省事務次官みたいな仕事)となり、右近衛将監(朝廷の護衛隊分隊長みたいな仕事、官位でいえば正六位相当で身分的にはずっと格下)となった基章と朝廷行事の運営などで仕事上の付き合いがあり(五味文彦『平清盛』)、そこから発展して私的交流があったと推測される。


久安六年(1150)、12歳で鳥羽上皇の蔵人(秘書官みたいな仕事)となる。中務少輔だった19歳で参戦した保元の乱では崇徳上皇方の白川北殿に向かう清盛軍に加わり(『兵範記』)「鎮西八郎」源為朝と対峙する。しかし譜代家臣・伊藤景綱の六男である忠直(忠清の弟)が射殺されてしまったことから重盛は自分が挑むと前に出て、清盛に慌てて止められている(『保元物語』)。


平治の乱

平治の乱では、二条天皇による藤原信頼討伐令を受け、叔父の平頼盛と共に大内裏攻撃軍の大将を務める。軍記物語の『平治物語』においては、大内裏攻撃軍総大将の重盛は待賢門にて「年号は平治、都は平安京、我らは平氏、三つ同じくたいらなり!ならば敵をたいらげよう!」と大音声で名乗りを上げ、これに「防げや者ども」と答えて逃げただけの藤原信頼が率いた主力部隊を粉砕した。郁芳門で頼盛軍と戦っていた義朝はこの惨敗を見て激怒し、長男の「鎌倉悪源太」源義平が応えて僅か十七騎で出撃、内裏の左近の桜と右近の橘を巡って重盛と一騎打ちをし、ついに退却させたという。さらに堀川にて追撃してきた義平と争い、重盛は馬を撃たれて落馬して窮地に陥るが、味方の増援で難を逃れたとか。もちろん鎌倉時代成立の軍記物語なので、源氏を持ち上げようとか重盛を持ち上げて清盛を悪役にしようといった意図がよく指摘され、鵜呑みは禁物。日下力『平治物語の成立と展開』は、当時の建物配置からして義朝が息子の朝長や頼朝に弟の義盛(行家)らを従えて郁芳門で待賢門の戦況を眺めていたというのはありえず、描かれた義平の活躍は後世の創作であろうとしている。そもそも同時代の記録である『愚管抄』によれば、義朝は平家勢の到着を待たずに大内裏から出撃している。ただし『愚管抄』でも「重盛は堀川にて馬を撃たれたが、材木に弓を突いて駆け上がり、馬を代えて戦い続けた。見事な戦いぶりである」とあり、重盛が個人戦闘力にも優れていたことは事実らしい。ひょっとすると義平とも堀川で一騎打ちをしたのかもしれない。


『平治物語』にもあるが、重盛軍の本当の作戦目的は信頼軍を修復したばかりの内裏から遠ざけることにあった。義朝らがいなくなった内裏は無事平家側が確保しており(五味文彦『平清盛』)、その後重盛らは本拠地六波羅に凱旋したようだ(『治承・寿永の内乱と平氏』)。さて信頼方は京都市街に分散した平家側の武士たちを討って勢いに乗り六波羅に攻め込んでくるものの、六条河原での決戦で大敗して散り散りに東国へ逃れたと言う(『百錬抄』)。


平家の後継者

平治の乱後の重盛については『治承・寿永の内乱と平氏』が詳しく論じている。重盛は二条天皇に重用されて正三位、また院庁執事別当となる。二条天皇の死後も後白河上皇は憲仁親王(後の高倉天皇)の乳父に重盛を登用し、官位も権大納言となった。さらに重盛には「東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨」が下され、つまりは逆らうものを討伐する武家の棟梁としての権限が公認されたことになる。その後の清盛の太政大臣辞任と出家によって、重盛は平家の後継者としての地位を公的に認められたといえる。さらに清盛の引退によって侍大将の平貞能伊藤忠清等の軍事に長けた重臣が重盛の側近となった。


かくして平家の実質家長となった重盛は、後白河院の命を受け海賊退治や反乱鎮圧、そして特に何度も繰り返された寺社の強訴に武力で対応することとなる。その結果、頼盛が出兵に応じないことで嘉応の強訴阻止に失敗するといった経験で、実態は一族の私兵の連合体に過ぎない平家の弱点に直面した。強訴に対応した兵力は重盛が二百騎、頼盛は百五十騎、そして宗盛が百三十騎であり、頼盛は知行国尾張を強訴側が罷免を求めた藤原成親に奪われていたため、出陣に消極的だったという。強訴の悪僧たちは都に乱入し内裏に押し入った。重盛は義兄の成親等が流罪となる屈辱の敗北を強いられた。


しかし重盛は、下野国での足利俊綱新田義重の対立に介入して前者を傘下に従えるなど、諸国に独自の兵力を形成し、特に宇都宮朝綱工藤祐経武田有義など、東国武士を多く従えていった。また義兄の藤原成親が検非違使別当となり、重盛は検非違使や北面の武士も動員できるようになっていく。こうして後には承安三年南都大衆の強訴に対しても自らの武士だけで入京を阻止してしまうという強大な武力を持つにいたる。この戦勝によって主君の後白河上皇は強訴を主導した興福寺の荘園を全面没収することに成功している。重盛は右近衛大将(朝廷軍の次席総司令官)に昇進した。しかし出動に平家一門を参加させないことは、裏返せば一門における重盛の位置を孤立的な立場へと追いやる結果にもなっていった。


ちなみに俊綱が傘下になったのは以下のような経緯があった。俊綱はある女性を殺害したことで足利荘の領主を解任され、後任に新田義重を据えられた。この時、俊綱は上洛して直接重盛に事情を愁訴し重盛はこれを認めて俊綱に領地を返還した。俊綱はこの恩に報いるべく重盛の家人になったという。


のち俊綱は息子・忠綱らともに平家方として源頼朝と戦ったが、最後は源範頼小山朝政との野木宮合戦で敗れ滅亡した。


重盛は父・清盛の後継者(嫡男)として期待されながらも、生母(高階基章の娘)と同母弟・平基盛が早世して母方・高階家の身分が低いため有力な外戚の庇護もなく、継室・平時子が健在で有力な堂上平氏の外戚・平時忠らがいる平宗盛に地位を脅かされる。頼れるのは正室・藤原経子の兄・藤原成親、そしてその主君・後白河上皇だけであった。このため、政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場となった。後に平滋子が世を去ったことで清盛と後白河院の対立は決定的となった。そして重盛は清盛と後白河の間に立たされたため、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」(『日本外史』)と呟いたとされ、『愚管抄』でも重盛は「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」と生きることに望みを失った言葉を残したとされている。不穏な空気の中でそれでも重盛は武家の最高位左近衛大将(朝廷軍総司令官)に任ぜられ、さらに内大臣も兼ねる。


鹿ケ谷事件と死去

この頃、後白河院は延暦寺と決定的に対立する。天台座主・明雲を解任して伊豆に配流、明雲の身柄が延暦寺側に奪還され、後白河院が平家に延暦寺攻撃を命じる事態になった。緊迫した京都に清盛が上洛し、直後に清盛打倒の陰謀が露見したとして院近臣が続々と逮捕された(鹿ケ谷の陰謀)。この中に藤原成親が含まれており、成親は備前国にて死亡してしまう。『愚管抄』によれば食事を与えられずに殺されたという。『平家物語』によれば、さらに清盛は後白河法皇の排除を企み、これを平盛国や貞能から聞いて激怒した重盛は軍勢を集めて清盛の不忠を叱責し、震え上がった清盛は陰謀を思い止まったという。しかし重盛は、病がちになっていた上に成親の死が切っ掛けで気力を失い病が重くなったとされ、父に先立ち42歳で病没した。重盛の死は、清盛と後白河法皇の対立を抑えていた最後の歯止めが失われたことを意味し、両者の同盟関係を完全に崩壊させることになった。また、重盛が押えていた東国武士への統制が破たんし、のちに源頼朝の台頭を許すこととなる。


鹿ケ谷の謀議について、経緯からしても清盛に都合が良すぎるとして昔から陰謀説が絶えない。まず、明雲解任の発端となった延暦寺の強訴だが、院近臣・西光一族と清盛の出家を助けた明雲の紛争であった。そもそも発端は西光の息子の藤原師高近藤師経が加賀国で横暴に振舞い、いさかいの末に白山の末寺である鵜川の僧坊を全て焼き払ったことであった。清盛にとって西光(と息子たち)を処刑することは政敵の排除と盟友の延暦寺を敵に回さずに済むメリットがあった。また『愚管抄』によれば、陰謀の密告をしたのは多田源氏の当主である源行綱である。しかし当時の行綱は、同族である摂津源氏の源頼政(行綱の祖父・行国の従弟)同様、福原の清盛と協調関係にあったとされ、清盛打倒の密議に呼ばれたというのはいかにも不自然である。同じく『愚管抄』によれば謀議の場を提供したとされるのは信西の四男・静賢であるが、処罰されるどころか陰謀に連座したとされる俊寛の役職を事件後に拝領している。最後に密告を受けた成親の逮捕であるが、清盛に呼ばれて「何事のお召でしょうか」と呑気な挨拶をして参上した直後に逮捕され、とても重大な陰謀を行っていたとは思えない様子であった。『愚管抄』によれば院近臣が集まって何かを論じていたのは事実であるが、『平家物語』が語る「おや瓶子(平氏)が倒れましたな」といった様子はまるで日頃の愚痴をぶつけ合っている酒宴にすぎない。以上のように謀議の実在にはいくつもの疑問が持たれている(中丸満『平清盛のすべてがわかる本』)。また事件で失脚した関係者だが、成親が重盛の義兄である上に、長男・維盛と三男・清経の妻の父、俊寛の姉妹は頼盛の妻、藤原成経平教盛の娘婿。つまり宗盛や時忠ら堂上平氏の関係者が何故か含まれていなかったりする。


野口実(『武家の棟梁の条件』)は、後白河法皇とその愛妻建春門院滋子の陵墓の真北にある、豪華な武具で埋め尽くされた武将の墓が平重盛の墓だという説を挙げている。この墓は後白河院が住んだ法住寺殿にあり、雲竜紋の金銀象眼を施した兜の鍬形、黄金に輝く鶴の絵が平象嵌で描かれた馬具の鏡板などが発掘されている。京都を守る坂上田村麻呂を模して作られた像を埋めたという将軍塚の伝説と同様に、後白河院夫妻の陵墓を霊的に守護する施設であったというのだ。野口によれば、平家都落ちの後に平貞能が法住寺殿の近くに宿泊して重盛の墓に詣で、主君一家の衰亡を嘆く感情を抑えきれずにその遺骨を持ち去ったという『源平盛衰記』の記述にあるのが、この武将墓だとのこと。野口は重盛の遺骨が高野山に納められたという説も併記しているので、真相は定かではない。法住寺殿に葬られたとすればさて、死後も後白河院から頼みに思われた名誉と考えるべきか、死後も体良く使われていたと解釈すべきか。


その後の小松家

重盛の子供たちは父の屋敷小松第の名を取って小松家と呼ばれる。若くして父を失い、また平家棟梁の座は叔父の宗盛に移った為、嫡流を外れて不遇であった。長男の平維盛富士川の戦いで水鳥の羽ばたきに驚き総崩れになるという醜態を見せて清盛の怒りを買ったが、墨俣川の戦いで叔父・平重衡と共に源義円(義朝の八男、義経の同母兄)と源行家を破っている。ちなみにこの時の軍功で右近衛中将に昇進し公卿となるも、軍功もなくわずか11歳にして公卿となった宗盛の子・平清宗に遅れを取っている。北陸道遠征軍では再び総大将を務め火打城の戦いなどに勝利し越前や加賀を制するが、越中における倶利伽羅峠の戦い木曽義仲の奇襲に敗れて壊滅。一ノ谷の戦い後、屋島から抜け出し熊野で入水自殺したという。


次男の平資盛は父同様に後白河法皇の近臣として仕え、一門の都落ちには同行せず後白河法皇に従うことを申し出る。しかし法皇は資盛には会わず、大叔父の頼盛の一族のみを保護した。資盛はやむなく一門に同行し壇ノ浦の戦いで入水した。


小松家の人々は公式記録では概ね平家の滅亡とともに不遇のまま散っているが、平家の落人伝説が多いことにも定評がある。重盛が皇室忠臣として人気が高かったせいかもしれない。茨城県城里町には平貞能が重盛の遺骨と経子を奉じて落ち延びたという伝説があり、水戸徳川家当主の德川篤敬陸軍大将が重盛の忠義を称賛する碑文を残している。奄美群島に伝わる諸鈍シバヤはこの地まで逃れてきた資盛が伝えたとされる。維盛も熊野に隠れ住んだという説、静岡県富士宮市に逃れたという説、果ては(都落ち以前だが)長野県鬼無里紅葉というを退治した伝説までもあったりする。また真偽のほどは定かではないが、鎌倉時代中期、北条泰時経時時頼三代に仕えた御内人平盛綱北条時宗に仕えた内管領平頼綱(盛綱の子)、鎌倉時代末期、北条高時に仕えた内管領・長崎円喜高資父子は資盛の後裔だといわれている。ほかに織田信長は(彼の主張通りだと初代の没年が百歳を越えてしまって怪しいのだが)平資盛の末裔を称している。


評価・エピソード

温厚な名将

 江戸時代儒学者安東省菴によって楠木正成藤原藤房万里小路藤房)と並ぶ天皇家の忠臣として讃えられた(『三忠伝』)。実際、『平家物語』を初めとした軍記物語での重盛の評価は、比類なき善良な忠臣とされている。重盛は、父が非道な陰謀を提案するたびに諫言し、民を思いやり朝廷への忠義を重んじる人物として描かれる。これは、清盛の悪逆ぶりを強調するために善良さを強調した創作であると考えられている。


「小松内府(重盛のこと)ハイミジク心ウルハシクテ(『愚管抄』)」

「武勇は人に優れているのだが、心ばえは実に穏やかである(『百錬抄』)」


もっとも、史実でも当時の評価は、以上のように好意的なものが多く、優れた武人であると同時に穏和で気配りのできる人物だったとされる。


 鎌倉時代の少年少女向け説話集『十訓抄』にはこんなエピソードも残されている。重盛は賀茂祭を見るために四、五両の車を一条大路に出した。沿道はすでに見物の牛車が隙間なく並んでいたが、重盛は当時絶大な権力を持つ平家の棟梁である。人々はいったいどの車が追い出されるのであろうかと怯えて見守っていた。そうするとちょうど見物に適した位置の車が数両除けられたが、なんとそれらの車には誰も乗っていない。重盛は民衆に迷惑をかけないよう、予め無人の車を置いていたのである。重盛は『源氏物語』で六条御息所が車争いをしたという話を教訓に、このような思慮深い準備をしていたという。


隠された激しさ

 しかし以上のような人物像は、清盛と後白河の間に立たされたため、自らの意思を封じ込め調整役に回らざるを得ない立場が、自助努力によって後天的に形成されたようでもある。そもそも青年期の重盛は源為朝や源義平ら豪勇で知られた敵将とも渡り合うことを望んだほど血気盛んな性格である。「殿下乗合事件」を見ると、武人としての激しい感情を心の底に隠していたとも考えられる。


 殿下乗合事件とは(『玉葉』『愚管抄』『百錬抄』他)、嘉応二年(1170)七月三日、当時十三歳であった重盛の次男・平資盛が、若い侍三十騎ほどを連れて鷹狩に出かけた時に起こった事件である。資盛の車は摂政松殿基房の行列とであった。貴族社会の礼法では、この時下位である資盛は車を降りて礼をしなければならない。しかし平家の権勢に驕っていた資盛の従者たちは基房一行を無視して通ろうとする。この非礼に怒った基房の従者たちは資盛の車を破壊するなどの暴行に及んで手酷い恥辱を与えた。後日基房は重盛の子にとんでもない無礼をはたらいたと知って慌て、下手人の従者たちを重盛に引き渡そうとする。重盛はこれを追い返してしまう。ますます震え上がった基房は従者たちを勘当し、検非違使に引き渡して処罰させる。七月十六日には基房は法成寺に参詣しようとするも行手に武者がたむろしていると聞き、引き返している。こうして基房は数カ月も外出すらせずに過ごしていたが、十月二十一日に高倉天皇の元服を相談すべく外出した時に武士たちが襲撃し、前駆の五人が馬から引きずりおろされ四人が髻を切られてしまった。これが重盛の仕業と言われ、実際、重盛と基房が共に参内した二十四日には、重盛の方が報復を恐れたのか多くの武士を連れていたという。


しかし、この事件はさすがに批判を受け結果的に重盛ひいては小松家の地位が低下する一因にもなった。重盛を高く評価する慈円(基房の異母弟でもある)も「かの重盛がこんなことをするのであろうか」と困惑している。


『平家物語』ではこれは清盛がやった報復ということになっており、資盛が辱められた直後に怒った清盛がすぐさま暴行に及んだという話にするために、事件の発生日を七月三日から十月十六日にずらしたりしている。実際の清盛はこの頃、福原にいた上に基房襲撃によりできなくなった天皇元服の為に後白河上皇の使者と相談したり、基房を慰撫するために太政大臣に推薦したりと我が子の喧嘩の収拾に追われていた模様(五味文彦『平清盛』)。なお、NHk大河ドラマ・「平清盛(大河ドラマ)」は『平家物語』を踏襲しており、重盛の悲劇を表す重要な伏線のひとつとして描かれている。


また承安二年には重盛の家人が春日社の社人を殺して興福寺が強訴するという事件が起こったが、重盛は家人を頑として庇っている。少なくとも温和でお人よしなだけの人物ではなかったようではある。その穏健さからも激しさからも福原に引退して重盛の活躍を望んだ清盛の期待が窺えるのが重盛の人物像であろう。

 

関連人物

  • 平清盛: 父。
  • 藤原経子 : 妻(正室)。
  • 藤原親盛娘 :側室。
  • 平維盛 :長男
  • 平資盛 -:次男。「殿下乗合事件」に関連する人物。当時10歳だったとか。
  • 藤原成親:義兄で、親しかった人物。正室・藤原経子の兄弟。
  • 平基盛:次弟(唯一の同母弟)。
  • 平宗盛:三弟。
  • 平知盛: 四弟。
  • 平重衡:五弟。

登場作品

関連タグ

日本史 歴史創作 源平 平家 平安時代 武将

NHK大河ドラマ・「平清盛

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