概要
歴史
家康の十一男頼房は下妻藩主から水戸藩主となる、石高は36万石であった。水戸藩主は頼房の三男光圀が継ぎ大日本史の編纂を行った。水戸藩は尊王の思想を持ち幕末に大きく影響を与えた。9代藩主斉昭は尊王攘夷派として動いた。斉昭の子慶喜は一橋徳川家の当主だったが後に15代将軍となる。慶喜の弟昭武はパリ万博派遣団としてフランス・パリへ渡った。明治維新後に養子(長兄慶篤の子)篤敬が侯爵に叙爵されたが篤敬の子圀順が公爵に陞爵された。
分家
1639(寛永16)年、頼房の長男の頼重が常陸下館(茨城県筑西市)5万石を与えられ立藩。1642(寛永19)年に讃岐高松(香川県高松市)12万石へ加増移封された。
長男である頼重が水戸藩を継げなかったのは、生まれたときに尾張・紀伊両家に跡取りがいなかったため存在を秘匿されたという理由があり、それに負い目を感じた弟で水戸藩2代藩主となった光圀が、自身の子である頼常を頼重の養子に、頼重の子である綱條を養子に入れることで、頼重の血統が本家を継げるようにした。また子がなかった綱條の後も3代当主頼豊の子が養子となり、本家4代当主宗尭になった。
1661(寛文元)年に頼房の四男の頼元が常陸額田(茨城県那珂郡)2万石を分地され立藩。1700(元禄13)年に将軍徳川綱吉より、改めて陸奥守山(福島県郡山市)を与えられ移封した。
明治維新後に常陸松川(茨城県大洗町)に移封、子爵となった。
頼元の弟の頼隆が、頼元の分知立藩と合わせて、常陸保内(茨城県大子町)2万石を分地され立藩。頼元の移封と合わせて幕府より常陸石岡(茨城県石岡市)与えられ移封した。
明治維新後は子爵となった。
1682(天和2)年に頼房の七男頼雄が常陸宍戸(茨城県笠間市)1万石を分地され立藩。
8代藩主頼徳の時に天狗党の乱の失態を問われて改易、頼徳は切腹となった。1868(慶応4)年に頼徳の父で前藩主であった頼位が明治政府の命により再立藩し、維新後に後を継いだ頼恭が子爵となった。
- 松戸徳川家
維新後千葉県松戸駅(現松戸市)に移住した昭武の子武定が、1892(明治25)年に父の功績により子爵位を与えられて創設した。