松平頼重
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まつだいらよりしげ
松平頼重とは江戸時代前期の武士である
元和8年(1622年)に誕生したが、頼房の兄である義直(尾張徳川家当主)と頼宣(紀州徳川家当主)に男子が生まれないことを憚って、父頼房に会うことができず家老の三木之次、次いで之次の娘婿である滋野井季吉(権大納言)によって育てられる。
結局1637(寛永14)年まで頼房に御目見することを許されず、しかもその間に光圀が継嗣に決まったことで、次男として扱われることになった(このことが若年期の光圀の素行不良に繋がったとされている)。
1639(寛永16)年に常陸下館5万石を与えられ、3年後にはに讃岐高松12万石に転封された。日本初とされる上水道を敷設し、水利が悪い讃岐を整備するなど藩政にも意欲的に取り組んだ。
また不本意ながら分家の扱いを受けることになったが、従兄弟である3代将軍・家光の信頼は厚く、大名の格式を示す伺候席も家光の異母弟・保科正之に始まる会津松平家、譜代筆頭の井伊家と並んで溜詰とされ、その識見を評価されていた。
元禄8年(1695年)に死去、享年74歳。
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