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生没年 1652(承応元)年~1704(宝永元)年

官位 従四位 左近衛権少将・讃岐守


経歴編集

常陸水戸藩徳川光圀の長男だが庶子であり、しかも生まれたのと同時期に正室となる近衛尋子との縁談が決まりそうだったので、光圀の兄である讃岐高松藩主松平頼重の養子となる。

頼重の死後に藩主となるが藩政は貧困状態であり家臣の俸禄などの借上をする。藩校講堂を建て儒学を学ばせている。

1704年に死去し、養子の頼豊が継いだ。また頼常の死により、光圀の血筋も途絶えた。


墓所はさぬき市末の霊芝寺高野山真言宗)。本来の高松松平家の菩提寺は法然寺(高松市仏生山。浄土宗)になるが、実父・光圀に倣う形で儒教墓に葬られる事を望み、それを受け入れた寺が霊芝寺であったため、こうなった。

なお霊芝寺には同じく水戸徳川家から高松藩主となった松平頼恕も頼常に倣う意図で葬られている。


外部リンク編集

松平頼常 - Wikipedia


関連タグ編集

武家 高松松平家 高松藩 水戸徳川家


水戸黄門:当然ながら登場人物のひとり。テレビドラマでは陰謀に巻き込まれたり、乱心したり(敵を欺き父を呼ぶための芝居だが)と忙しいヒトではある。

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