生没年 1798(寛政10)年~1842(天保13)年
官位 正四位下 左近衛権中将・讃岐守
水戸藩第7代藩主・徳川治紀の次男。異母兄に第8代藩主・斉脩、異母弟に第9代藩主・斉昭がいる。
経歴
1815(文化12)年に分家の高松松平家当主で讃岐高松藩主・松平頼儀の養子となる。元々頼恕の高祖父で水戸藩4代藩主の宗堯は高松家から養子入りした人物であり、頼恕の養子入りで藩祖・頼重の血統に戻った。
文政4(1821)年に頼儀の隠居により藩主となる。自身と同じく水戸徳川家から高松藩主となった2代松平頼常を崇敬していた。
藩政は貧困状態であり家老木村黙老を会計を行わせ改革を進めた。また塩田開発や砂糖為替などを実行した。
天保13年(1842年)に死去。墓所は高松松平家の菩提寺である高松市仏生山の法然寺…ではなく、さぬき市末にある霊芝寺で儒教式に葬られている。これもまた松平頼常を範としたため。
頼恕の跡は頼儀の次男で養嗣子の頼胤が継ぎ、更にその跡を頼恕の四男・頼聰が継ぎ、現在まで続いている。